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「ただいまー」
右手に学生鞄、左手にスーパーの袋を持って、まっすぐキッチンへ向かう。家の中で火を使っている時特有のやわらかな湿気を心地よく感じながらドアを開けると、野菜を煮込む匂いと一緒に兄貴の声が流れた。
「おかえり。外寒かったか?」
「そーでもなかったよ。はい、これで良かった?」
スーパーの袋から、頼まれたカレー粉とシチュー粉を取り出すと、兄貴は「そうそう、これこれ」と云いながら受け取った。
「先週買おうと思って忘れてたんだよな。でも今日特売だったからちょうど良かった」
駅前で缶コーヒー片手に友達とダベってる最中、兄貴から電話がかかってきた。
メールじゃなくて電話だなんて、これは緊急事態に違いない!と勢い込んで通話ボタンを押すと、流れてきたのは『カレー粉が無い・・・』という悲痛な声。
『この前買ったと思ってて・・・でも今見たら無くって・・・』
普段からは考えられないしょんぼりとした声に、自然にくすりと笑みがこぼれた。
「じゃあ俺まだ駅前だからさ。買って帰るよ。どれでもいいの?」
『駄目。ええと、今日特売のやつがワゴンに並んでるはずだから、安いの2種類買ってきて。ついでにシチューも』
「おっけ。カレー粉とシチュー粉ね。他は?」
『あとは大丈夫。お願い』
「任せとけって」
最後の『お願い』に、喩え話じゃなく耳をくすぐられて、俺は上機嫌で通話を切った。兄貴との会話の後だと、普段使ってるケータイまでなんだか可愛く見えてくるから不思議だ。俺はほとんど無意識に、ケータイを撫でてからポケットに仕舞った。
普段キッチリしてる兄貴は、たまに失敗すると ─たまにだからか─ すごく慌てる。尋常じゃなく慌てる。逆に失敗なんて慣れてる詩織だったらにっこり笑ってスルーしてしまう程度の失敗にも、やっぱり慌てる。
けれど、そういう弱い所を見せるのは俺に対してだけだって事も判ってたから、だから俺は兄貴のしでかすちょっとした失敗は嫌いじゃなかった。ちょっとした失敗に、いつまで経っても慣れない兄貴が好きだった。
「んじゃ、俺そろそろ・・・」
帰るわ、と云いかけて立ち上がると、さっきまで話してた友達のポカンとした顔が目に飛び込んで、俺は首を傾げた。
「なに?」
「や・・・お前、家にヨメでも待ってんのかと思って」
「はぁ?」
なに云ってんだろねコイツは。ウチにお嫁さんなんている訳ないでしょー。
「今の、カノジョ?」
「うんにゃ、兄貴」
「・・・アニキ!?」
眼を点にしてるソイツに、んじゃまた明日ーとひらひら手を振って駅を後にする。
気がつくと、隣の喫煙スペースで煙草吸ってたサラリーマンとか、売店のおばちゃんまでこっちを見てた。一体なんだってんだろね?
俺はひらりと飛ぶような勢いで、近くのスーパーに向かう。兄貴のカレーは美味いんだ。肉はほんのちょっとだし高い野菜使ってる訳でもないけど、カレー粉2種類混ぜて使ってたりしてさ。ホント、頭良いんだよね。俺の兄貴は。
「ありがとな、助かった」
「どーいたしまして」
そして今目の前には、その頭が良くて優しくて可愛い兄貴がいる。
どうしよっかな、兄貴にごほうびとかねだっちゃおうかな。ああしまった、さっき寒くなかったかと訊かれた時に、寒かったって答えたら良かったんだ。そしたら、『あっためてー』とか云いながら自然に抱きつけたのに。
なんて、相当頭の沸いた事を考えていると、兄貴がちょっと眉根を寄せて不審げな表情を浮かべた。
(あれれ?)なんて思ってる内に、俺の制服の襟に手を掛けて。
「え・・・っ?」
そのまま、首筋に顔を寄せてきた。まるで、キスをねだるみたいに。
キス?
兄貴が?
兄貴が俺に?
どうしよう。そりゃ、俺達結構最近までおやすみのチューとかしてたけど、でもアレはただの挨拶だし、俺からするのがほとんどだったし、兄貴からこんなに積極的になるなんてちょっと有り得ない。
すぐ傍にある小さな頭に、さらさらした髪に、触ろうと思えばすぐの距離で静かにパニックに陥っていると、
「・・・やっぱり・・・」
という呟きが小さく聞こえた。
「な、何が?」
面白いくらいひっくり返った声で問うと、兄貴は俺の首根っこを掴んだまま、きっと顔を上げた。
「煙草の匂いがする」
「へ?」
たばこ?
慌てて袖に鼻を近づけると、ほんのわずかだけど確かにほのかに煙っぽい。
「まさか、吸ってないだろうな?」
「すすすす吸ってません!俺じゃないよ兄貴!」
もちろん俺の友達でもない。アイツだ。俺達のすぐ近くで、メール見ながらばかすか吸ってたサラリーマン。スペースこそ分かれてたけど、そう云えば風向きは確かにこっち方向だった気がする。
云い訳がましくならないように、でもかなり必死でそんな事を説明すると、兄貴はくすりと笑って「ばか」と云った。
「判ってるよ。ちょっとからかっただけ」
「え・・・ええええ~・・・」
ヒドイよ兄貴。兄貴に嫌われたら、俺多分生きていけないのに。あの忌々しいせせらぎと同じくらい、生きる意味無しのろくでなし生物になっちゃうのに。
「悪かったって。機嫌直せよ」
「だって・・・兄貴がいじめた」
いじいじいじ、とセルフ効果音付きでしゃがみ込んでいじけてると、兄貴はやれやれとか云いながら、俺の肩を叩いて立ち上がらせた。
「ごめんって。帰ってくるの遅かったしさ。最近暗くなるの早いから、ちょっと心配した」
云いながら、照れたように俯いてみせる。ああそっか。そういえば今日は特に寄り道するとも云ってなかったっけ。
メールじゃなくて電話だったのは、もちろんお遣いを頼む意図もあったんだろうけど、俺の事を心配してくれてたんだろうか。
そう思ったらなんだかやっぱり可愛くて仕方なくて、俺は兄貴に抱きついた。というかしがみついた。
「兄貴だいすきー」
「はいはい」
優しくて賢くて可愛い兄貴。なのに俺ってば役立たずな上に心配ばっか掛けて、ろくでもない弟でホントにゴメン。
しばらくそんな風にして懐いてると、唐突に兄貴が俺の襟首をがしっと掴んできて、俺は目を瞬いた。
「兄貴?」
まるで今から殴りかかろうとするみたいに首を解放してくれないまま、少し屈んで俺の胸元に顔を寄せると、低めた声で「いいか、よく聞け」と囁いた。
「日本の癌での死因第1位は肺癌だ」
云いながら、兄貴が俺の胸─というか肺の辺りを探る。
「あ、あの、兄貴?」
そして細く長い指でトントンとリズミカルに叩きながら、何も聞こえないみたいに俺を無視して続けた。
「もちろん、肺癌と喫煙の因果関係がはっきり認められた訳じゃないが、健康リスクに関わりがある事は事実だ。ニコチンは覚醒作用と同時に依存率も高い。血管収縮が習慣化すれば栄養障害が起こるし─」
云いながら、首筋に指を絡め、
「─心筋梗塞の危険性も高くなる」
つつ、と指を這わされて、ゾクリと背中が粟立った。
「・・・ッ!」
気がつくと、俺は兄貴の両手首を掴んでいた
ちょっと力を込めただけで、あっけなく折れてしまいそうな細い細い手首。頼りない程に柔らかく薄い皮膚に守られた青白い動脈。ここに咬みついたらどんな反応をするだろう。驚いて逃げるだろうか。いいや、でも、逃がさない。逃がすもんか。煽ったのは兄貴だ。俺は、俺は悪くな─
「─けど、一番の害悪は、」
兄貴は表情ひとつ変えずに、俺の腕ごと手首を持ち上げると、俺の鼻先でピタリと止めた。
「俺は煙草臭い奴にいつまでもくっつかれるのはゴメンだって事」
「んがっ」
思いっきり鼻をつままれて、俺は思わず兄貴の手を放してしまう。
・・・忘れてた。優しくて賢くて可愛い俺の兄貴は、これで意外に力持ちでもあったんだ。
「早く着替えて来いよ。あとついでに風呂入れてきて」
がっくり項垂れて情けない顔を晒してるだろう俺の顔を見ても、涼しい顔で何事も無かったように襟を整えてくれる兄貴に、俺は最後の悪あがきを試みる。
「ねえ兄貴、俺達なんの話してたんだっけ?」
「なんの、って」
兄貴は可愛らしく小首を傾げて俺を見返すと
「煙草の害について、だよ」
そう云うと、くすりと悪戯っぽく笑って俺の首を解放した。
E N D
原作での潤也と煙草のくだりを読んでから、いつか書きたいと思ってた話。
タイトルは、ロシアの某劇作家へのオマージュです。
くだんの短編は、『煙草の害について』という講演がいつのまにか・・・
という筋ですが、それとは逆の方向で攻めてみました。
あとは、一般人から見た兄貴萌えの奇異さについて(笑)。
潤也は自覚なく地雷を撒きまくってそうです。主に兄貴にとっての。
ホントはさらっとシンプルに書きたいのですが、
いつも無駄に長くなってしまうのが悪い癖ですね。精進。
タイトルは、ロシアの某劇作家へのオマージュです。
くだんの短編は、『煙草の害について』という講演がいつのまにか・・・
という筋ですが、それとは逆の方向で攻めてみました。
あとは、一般人から見た兄貴萌えの奇異さについて(笑)。
潤也は自覚なく地雷を撒きまくってそうです。主に兄貴にとっての。
ホントはさらっとシンプルに書きたいのですが、
いつも無駄に長くなってしまうのが悪い癖ですね。精進。
「だってペットが死んでこんなに悲しいなら親だったらどうなるの」
まるで人の隙間にこぼれ落ちたみたいなその言葉はやけに教室に響いて
その瞬間いくつもの視線がこちらを向いた
気がした。
さよならいつか
救急箱から絆創膏を取り出して、膝頭と頬にペタリ。鼻は・・・まあいいか。ちょっと赤むけてるけど、大して擦ってもいないし。
今日の授業の最後は体育。しかも野球だったから、締めくくりとしては悪くない。久々の紅白戦は白熱して、紅組の最終打者(俺だ)のヘッドスライディングが勝敗を分けた。結果はもちろん紅組の勝ち。
ちょっと前みたいにケンカで傷だらけになることは少なくなったけど、だからって絆創膏がいらなくなる訳じゃない。この前兄貴が特売で買ってきてくれたばかりなのに早くも底が見えかけているお徳用パックの箱を救急箱に戻し、いつも通り薬瓶の中身を確認して、それに気がついた。
風邪薬が減っている。
この家には2人しかいないから、俺じゃないなら飲んだのは当然兄貴だ。9月の連休が終わった途端、肌寒い日と冷たい雨(秋の長雨というらしい)が続くようになって、体調を崩してしまったんだろうか。
兄貴は決して病弱という訳ではないけど、季節の変わり目にはちょっと弱い。昔は─それこそ母さんが生きてた頃は─ちょくちょく寝込んでたりもしたけれど、最近ではそうなる前に薬を飲んでさっさと治してしまうのが普通だったから、風邪で学校を休むような事は滅多になかった。
気を張っているんだ、という事は、子供心にも解っていた。
だから、兄貴が絆創膏の減り具合をチェックしてるように、薬瓶の中身を見るのは俺の(秘かな)役目だと思っていた。あまり表立って気にかけると却って気を遣うような人だから、あくまでもさりげなく。少しでも余計な負担をかけないように、できるならいざという時に少しでも兄貴を助けられるように。
そう、思っていたのに。
「おかえり、兄ちゃん」
学校帰りに買物を済ませ、制服姿のままで袋の中身を冷蔵庫に仕舞っていた兄貴に、背後から声をかける。
「ただいま。─また派手にやったなあ」
絆創膏だらけの俺の顔を一目見るなり、兄貴は呆れたように笑った。
「野球、ついマジんなっちゃってさ」
「当然勝ったに決まってるよな?」
「当然勝ったに決まってんじゃん」
そんな風に軽口を叩きながら、買い物袋から野菜を取り出して兄貴に渡す。それまでは買物も二人で一緒に行くことが多かったけど、この年の春から中学校と小学校に分かれて以来、兄貴が一人で済ませる事が多くなっていた。
さっき見た薬瓶の事もあって、つい確認するように兄貴の顔ばかりちらちら見ていると、
「なに?」
と、兄貴の方から声を掛けられた。しまったと思ったけど、自然にさりげなくと思えば思うほど俺の態度はぎこちなくなってしまい、ついには顔を覗きこまれて「具合でも悪い?」と真逆の質問をされてしまう。
慌ててふるふると頭を振り、何か違う事を、と話題を探した。
「ウチのクラスの女子がさ、飼ってたペットが死んじゃって」
・・・咄嗟に振った話題としては、ハッキリ失敗だったと思う。けど、こういう話題こそ食い付いてくるのがうちの兄貴なんだよな。
「ペット?犬?猫?うさぎ?」
ホラやっぱり食い付いた。
「何だったかな。名前はマルとか云ってたけど」
「それじゃ何か判らないな」
自分で云い出しちゃった事だし、仕方なく俺は話を続ける。
「そのマルがさ、一年生の時に拾ったヤツだったんだって。で、飼う時も結構反対されたらしいんだけど、今になって反対された理由が解ったって」
「?」
「こんなに辛いなら飼わなきゃ良かったって」
「・・・ああ」
ダメだよそんな事云っちゃ。マルだって可哀想だよって、周りの女子が慰めてる中で、その言葉は隙間にすこんと落ちたパチンコ玉みたいに響いた。
「だってペットが死んでこんなに悲しいなら親だったらどうなるの」
その瞬間、みんなの目が一斉にこちらを向いたと思ったのは、気のせいじゃなかったと思う。
今時、親が離婚してたりして片親の家庭なんて珍しくないし、うちのクラスにも数人いる。けど、不仲でもない両親を一度に亡くしている家庭はうちだけだった筈だ。
「あ・・・」
短いけど鋭い氷柱みたいな沈黙は、それを作り出した本人の口で破られた。
「ごっ・・・ごめ・・・そういう、つもりじゃ・・・」
『そういう』がどういうものかはわからないけど、とにかく取り返しのつかない事を云ってしまった、という事は判るんだろう。さっきまでは顔を真赤にして泣きじゃくってたのに、今は青ざめて唇が震えていた。
「ペットが死んじゃった事は無いけど、悲しいのは同じなんじゃないの」
別に助け舟のつもりじゃなかったけど、俺がそう云うとその女子は『ごめん』とまた謝って、そして始業のチャイムが鳴った。
「兄ちゃんもそう思う?」
もちろん『親が死んだら』云々の部分は云わずに、訊いてみたかった事だけを問う。
悲しい思いをするなら拾わなければ良かったのにって、兄ちゃんもやっぱりそう思う?
兄貴は決して思いつきで物を云わない。いつものように、考え事をする時の癖で口に手を当てて、少しだけ黙り込んだ後で口を開いた。
「俺は・・・」
けれどその途端、立て続けに咳き込んで言葉はかき消された。
「に・・・っ兄ちゃん!」
慌てて背中をさすると、しばらくして『大丈夫』と云うように兄貴の左手が上がった。
「えと、続きは俺やっとくから着替えてきなよ。晩ごはん何?皮むきくらいなら俺できるし」
声が震えないようにしたら早口になってしまった。そんな俺の不自然さにも気付いてるだろうに、兄貴は呼吸を整えると、涙の溜まった目で俺に笑いかけた。
「・・・そうだな、玉ねぎ剥いておいてくれるか?着替えてくるよ」
「おう!任せとけ!」
選手交代。ハイタッチのつもりで体温を探る。熱はないみたいだけど、顔色は確かに良くない。
ソファに置いてあった学生鞄を持って部屋に向かう兄貴を見送って、俺はありったけの雑言を自分にぶつける。俺の大バカ。マヌケ野郎。さっさと休ませれば良かったのに、変な話題振って長引かせて。
ひとしきり悪態をつきながら、頭の中はぐるぐる回る言葉で溢れ返りそうになっていた。
『だってペットが死んでこんなに悲しいなら親だったらどうなるの』
もしも兄貴、だったら。
翌朝。兄貴はいつも通り早起きして、いつも通り朝ごはんを作って、いつも通り俺を起こしにきた。いつもと違ったのは、その時俺はもう起きてて、着替えを済ませてた事くらい。
「珍しいな。どうしたんだ?」
いつもなら布団を引っぺがされるまで起きない俺だから驚くのも無理はないけど、本気で心配そうに見るのは止めてほしい・・・。いや、日頃の行いが悪いのがいけないんだけどさ。
ホントは兄貴が隣で布団を畳みだした時も起きてたんだけど、さすがに早起きし過ぎかと思って、これでも頭使ったんだよ。一応。
「別に、たまたま目が覚めちゃっただけ。それより今日なんか帰りに買う物ある?」
「うーん、昨日大体買ったしなー。・・・あ、洗面所の電球。切れかけてた」
「じゃ、俺それ買ってくる」
お遣いを引き受けて、朝ごはんを片付けて、二人で揃って家を出る。「今日はいつもよりのんびりできたな」なんて云われてちょっと嬉しかった。少しは楽になれたかな。
中学校の方が小学校より家から近いし、鍵は俺も持ってるから、本当は兄貴はもう少しのんびりしてても良いんだけど、『二人一緒』にこだわったのは兄貴の方だった。
始業式も近い春休み中のある日。今度から一人でガッコ行くんだよなーなんて軽く云った俺に、兄貴は一瞬驚いたような顔をして、それから覗きこむように俺を見た。
『どうせ帰りはバラバラになるんだからさ。朝くらい一緒に行こ?』
そんな風に云われて、嫌だなんて云えるはずもない。(云うつもりもなかったけど)
もちろん一緒に家を出たってそんなに長くは並んでいられないけど、来年は俺も中学だし、そしたらまた帰りも一緒にいられる。それだけで、俺は来年の春が楽しみで仕方がなかった。
「じゃあな、行ってらっしゃい。気をつけろよ」
「兄ちゃんも。行ってらっしゃい!」
十字路でお互いに手を振って別れる。しばらく歩いていたら、ふと忘れものに気が付いた。
(しまった。洗面所の電球)
これと同じものだからな、と兄貴がわざわざ商品名やワット数を書いてくれたメモを、しっかり玄関に忘れてきてしまった。まあいいか、同じようなのを買ってくればと思ったけど、前にもそれで全く違う物を買ってしまって、結局ワット数が合わずにレシートを持って交換しに行った前科がある。
どうやらまた同じパターンになりそうだと思った俺は、さっさと道を引き返した。まださっき別れたばかりだし、追いかけてもう一度聞こう。
十字路を曲がると、すぐ兄貴の姿を見つけた。声を掛けようとして、けれど一人じゃないのに気付いてためらっている内に、その会話が耳に入る。
正確には、兄貴を挟むようにして、両脇の二人が交互に云い立てていた。
「・・・つーかさ、いい加減医者行けよ。なんか酷くなってんじゃん咳」
「もう一週間近くなんじゃね?保健室の薬、マジ効かねって」
「常連になると担任うっせーぞ」
一週間?
保健室?
常連って、どういう事?
「すぐ治ると思ったんだよ。病院行くと弟が心配するし」
「ちっとも治んねー方がよっぽど心配だっつの。それくらい内緒で行ってこいよ。ってか、お前弟甘やかしすぎ」
「だなー。俺から云ってやろうか」
「何を?」
「お前んトコの兄ちゃん、このまんまじゃぶっ倒れるぞって」
「絶対止めろ」
低い声で云いながら睨みつけて、でもすぐにまた咳き込んだ兄貴を、ああもうわかったわかったなんて宥めながら両脇の二人が背中をさする。
俺は踵を返して来た道を走り出した。
知らなかった。
知らなかった。
知らなかった。
何を?兄貴の咳がもっとずっと前からだった事。俺が全然それに気付いてなかった事。気を遣うとか助けるとか、そんなのが全部俺の自己満足だった事。
兄貴に、あんな近い友達がいた事。
兄貴は所構わず独り言を云ったり考え事に没頭する癖があったから、小学校では少し浮いた存在だった。表立っていじめられてこそいなかったけれど、すごく親しい友達もいないように見えて、だから兄貴は俺と遊ぶことが多かったし、学校が終わって真っ直ぐ家に帰ってくるのも特に違和感は覚えなかった。それどころか、兄貴には俺しかいないんだって優越感すら持っていた気がする。
けれど、ほんとは違ったんだろうか。
兄貴はとっくに俺を卒業してて、けど俺がまだガキだから仕方なく付き合ってたんだろうか。ほんとは友達と遊んだり部活をしたり、もっと色々な事がしたかったのに、そんなのを全部我慢して家に帰ってきてくれてたんだろうか。
初めて中学の制服を着た兄貴を見たとき、カッコいいよなんて茶化しながら、本当はとても嫌だったのを思い出す。その時はどうしてか判らなかったけど、今なら解る。兄貴が知らない人みたいに見えたからだ。今まで何をするにも二人一緒だったのに、急に置いてけぼりにされるようで怖かったからだ。
『だってこんなに悲しいなんて思わなかった』
昨日聞いたあの言葉が回る。ねえ、知ってたらどうだったの?好きになんかならなかった?先にいなくなるって、いつか必ずさよならの日はくるって、父さんと母さんみたいに、俺を置いて、いつか必ず、そうだよいつか、兄貴だって
「・・・嫌だ」
自分の声に、はっと我に返る。いつの間にか小学校の門の前だった。
なんだ珍しく早いななんて先生の言葉も無視して教室に走った。
『兄ちゃんもそう思う?』
あの時、兄貴は何て答えようとしたんだろう。
それから二日間、俺は兄貴を避けた。
表面上はいつもと変わらないけど、登下校やら食事やら、何かと理由をつけては二人きりになるのを避けまくった。
と云っても元々二人しか住んでいない家で、それは思った以上にキツかったし、逆に今までどれだけベッタリ過ごしていたのかを再確認する結果になった。
けど、いつまでもそんな風に過ごせる訳がない。三日目にとうとう、兄貴がキレた。
「・・・潤也、何か俺に云いたいこと無いか?」
さすがに毎日帰りが遅いのをとがめて、晩ごはんの席で兄貴が云った。
「別に、何もないよ?」
内心、ビクビクしていた。俺は嘘が下手なのは自覚してたからなるべく向かい合わずにいようと思ったのに、こうして正面に座ると、兄貴の目は恐ろしいくらいに澄んでいて、やましい俺はあっさりと目を逸らしてしまう。
兄貴の向こうにあるキッチンの壁なんかを見ながらとぼけると、
「・・・そっか」
もっと何か云われると思っていたのに、あっけなく兄貴は席を立ち、自分の皿を持ってシンクに向かった。
洗い物の音が響く中、もそもそと一人でご飯を食べながら、俺はいつまでこうしているんだろう、と自問する。
いつになったら平気になれるんだろう。
大人になったら平気になるんだろうか。
大人になるまで一人でいるんだろうか。
一人でいたら大人になれるんだろうか。
「潤也」
不意に呼びかけられて、跳ねるように顔を上げる。
あかい瞳が真っ直ぐに俺を見て、そして。
「俺達、いつまでこうしていられるんだろうな」
─まるで俺の心を読んだような、けれど少し意味合いの違いそうな言葉に、何か云おうとして言葉が出てこない。ほんのちょっと前まで、あんなにも簡単に出てきてた言葉が、何一つ。
逃げ出したい。けれどずっと見ていたい。矛盾する気持ちを飼い慣らすことも出来ないまま、俺はそっと視線を外した。
「・・・おやすみ、潤也」
消灯ですよ、とは云われなかった。
「いってきます」
翌朝。どんよりとした曇り空の下、俺はその日も一人で家を出た。
傘を持って出なかったのは失敗だったかも知れない。曇っているせいか、空気もいつもより肌寒く感じる。兄貴の風邪は治っただろうか。鞄の隙間からちらっとだけ薬局の薬袋が見えたから、病院には行ったみたいだったけど。
一昨日の夜以来、兄貴は隣の部屋で寝るようになっていた。「うつしたらいけないから」という言葉が、言葉通りのものなのかそうでないのかは、兄貴の顔すらまともに見られない俺には判らなかった。
雨が降り出したのは、授業が終わってすぐだった。結構な大粒を落す空を恨みがましく見上げると、これからウチに遊びに来ないか、と後ろの席の奴に声を掛けられる。
「あ、でも兄ちゃんが心配するっけ」
そう云われて、いつもならゴメンと手を合わせる所だけど、この日の俺には渡りに舟だった。俺は、学校から歩いて2分の団地に住んでる癖に、しっかり傘を持ってるそいつの家に向かった。
「ただいまー」
「おかえり。─あら、いらっしゃい潤也君」
「お邪魔します」
居間でテレビを観ていたおばさんに挨拶をすると、
「直接来るなんて珍しいのね。お兄ちゃんには云ってあるの?」
目敏いおばさんは、俺のランドセルを見てそう云った。いつもなら必ず、家に一度帰って鞄を置いてから来るようにしていたから、単純に不思議に思ったんだろう。ハイともイイエとも答えられないでいると、
「潤也、今日傘無いんだよ」
だから雨宿りな、と俺に代わって答えてくれた奴に感謝して、俺達は部屋に向かった。
「やっと止んだな、雨」
そんな呟きが聞こえて、ゲーム画面から目を離してそちらを見ると、真っ暗な窓の向こう側はシャワーで洗ったみたいになっていた。さっきまで網戸をバチバチ鳴らす程だった雨音もすっかり静かになっている。時計を見ると、もうすぐ6時半になるところ。
「そろそろ帰るだろ。兄ちゃん心配してるだろうし」
その時、廊下で電話が鳴った。
なんとなく予感があったのか、俺と奴は自然に目を合わせると、しばらくしてコンコンとノックの音が響いた。
ドアを開けるとおばさんが立っていた。
「潤也君。お兄ちゃんから電話」
はい、と電話の子機を差し出される。俺は一瞬だけそれを見るけど、受け取ることはできないでいた。
しばらくして、口を衝いて出たのは
「・・・もう帰ったって云って」
「潤也君?」
「潤也?」
「金曜日だし、今日泊めてもらえないかな・・・お願いします」
最後の言葉はおばさんに向けたものだ。おばさんは俺の顔を見て小さく溜息を吐くと、子機の保留を解除した。
「あ、お兄ちゃん?ごめんなさいねぇ。潤也君、すぐに帰るから。・・・ええ、心配掛けてごめんなさいって」
おばさんはそう云うと、子機の電源を切った。
「なんで!」
自分勝手なのは判ってる。けど、どうしても堪え切れない理不尽な思いがぐるぐる回っていて、思わず大声を出した俺に、おばさんは目線を合わせて云った。
「お兄ちゃんとケンカした?」
首を振る。違う。こんなの全然ケンカじゃない。
「お兄ちゃんが嫌いになった?」
これも首を振る。嫌いじゃない。嫌いになれる訳がない。
「だったら、ちゃんとそう云わなきゃ駄目」
・・・云える訳もない。だからこんなに苦しいのに。
何を云われても首を振るしかない俺に、おばさんは「あなた達にはまだ判らないだろうけど」と云った。
「誰かと一緒にいられる時間って、ほんとはすごく短いのよ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
『俺達、いつまでこうしていられるんだろうな』
兄貴の言葉が耳に返ってくる。あの時、兄貴はどんな顔をしていたんだろう。怒ってた?泣いてた?悲しんでた?
違う、と思った。
あの時、兄貴は苦しんでた。
俺なんかより、もっともっと。
「・・・俺、帰る」
「そう、じゃあ送って行くわね」
「いい!」
俺はランドセルを引っ掴むと、玄関に向かって駆け出した。
「ごめんなさい、ありがとう、お邪魔しました!」
まとめて全部云って走り出すと「また月曜日なー」という声と「気をつけて」という声が背中で聞こえた。
俺はもう一度振り返って頭を下げると、今度こそ全力で走り出す。
兄貴が突然いなくなるという想像にすっかり俺は怖気づいて、これ以上好きになるのをやめようと思った。だって俺は兄貴がいたから、父さんと母さんが死んでもまともな生活に戻れたのに、その兄貴がいなくなったら?どうやったってあんな事、もう一度越えられる自信なんてない。兄貴がいないのに、たった一人でなんて。
だから、もうこれ以上好きになんかなんない。一人に慣れるんだ。いつか兄貴がいなくなっても大丈夫なように。
兄貴には友達もいるし、俺がいなくたってきっとちゃんとやっていける。それどころか、邪魔な荷物が無くなったら、もっと自由に好きな事をやれるようになるかもしれない。
けど、ごめん、兄貴。
やっぱり俺は駄目だよ。
だって兄貴しかいないんだ。
俺にはもう兄貴しかいないんだ。
家に帰ると、部屋の灯りは点いていなかった。
もしかして出掛けてるんだろうか、とドアノブに手を掛けると、予想に反して扉はすんなりと開いた。
「・・・ただいま・・・」
真っ暗な廊下は静まり返っていて、人の気配もない。玄関の電気を点けると、たたきに兄貴のスニーカーと傘が転がっていた。
まさに『転がっていた』としか表現できないほど、無造作に脱ぎ捨てられたスニーカーと傘はどちらもぐっしょり濡れていて、もしかしたら俺を探していたんだろうかと思い当たる。
それを裏付けるように、階段下にはやっぱりびしょ濡れになった兄貴の鞄と俺の傘が、投げ捨てられたように一緒に落ちていた。
今度こそ、怒ってるのかも知れない。
らしくなく脱ぎ散らかされた靴や、灯りも点けていない家が、拒絶を証明しているようで怖かった。けれど、このまま兄貴に見捨てられる事はもっともっと何倍も怖かったから、俺は勇気を出して二階に上がった。
「兄ちゃん・・・入っていい?」
普段はした事もないノックをしてから声を掛ける。何も聞こえてこない返事に、いっそドア越しに謝ろうかと思ったけど、それでは謝った事にならないからと、意を決してドアを開けた。
灯りを点けて、眩しさに目を細める。
けれど。
「にい・・・ちゃん?」
部屋には誰も居なかった。
布団が敷かれている訳でもなく、朝家を出た時のままだ。
最近、兄貴が寝ている隣の部屋のドアも開けてみる。が、やはりこちらも空だった。
「兄ちゃん・・・どこ?」
じわりと、黒い染みのように滲み出す恐怖。
背筋をすうっと冷たい汗が流れ落ちる。
兄貴はずっと咳き込んでいた。
なのに俺を探していた。多分、あのひどい雨の中を。
違う。ひどい雨だからこそ、だ。
びしょ濡れの靴に、傘。階段下の鞄。
あれは放り出されたんじゃなくもしかして
それだけの余裕、すら
「・・・兄ちゃん!」
階段を駆け降りると、一番近い洗面所、トイレ、風呂場とドアを開けて行く。最後にリビングの電気を点けて、けれどそこにも人の姿が無いのを確認すると、焦りと後悔で息が詰まりそうになった。
頭のどこかが真っ白になっている。心臓がおかしな具合に跳ねて、喉が震えて息がし辛い。何かがカチカチという音がして、うるさいなと思ったら自分の歯が鳴っていた。
どうしよう。ごめんなさい。にいちゃん。ちがうんだ。きらいなんかじゃ。どうしよう。どうしたら。どこにいるの。にいちゃん。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
『誰かと一緒にいられる時間って、ほんとはすごく短いのよ』
ばかだった。いつ来るかもわからない「いつか」に一人で怯えて、兄貴の気持ちも何にも考えないで。
二度と会えなくなるのがどういう事かって、そんな事とっくにわかってたはずなのに。
もう一度二階を探そうとして、それに気づく。
キッチンに続く扉の陰から覗く、床の上に放り出された、白い
人形みたいな
腕 が
「兄ちゃん!!」
それから先の事はあまり覚えていない。気がついたら病院の廊下で、隣にはさっき別れたおばさんがいた。
あの後、俺からかかってきた電話は完全にパニクっていて、慌てて車を飛ばしてくれたおばさんが、キッチンで倒れている兄貴と、兄貴を抱えて泣き叫んでる俺を見つけて救急病院に連れて行ってくれた。らしい。後で聞いた話。
診断結果は肺炎だった。もう少し遅かったら危なかったという話を聞いて、俺はまた鼻水だらけになりながら泣いた。あんなに泣いたのは、父さんと母さんが亡くなった時以来だったと思う。
「ごめんな、潤也」
病室で目を覚ました兄貴が開口一番、口にしたのはそんな言葉だった。
「なっでっにいちゃ、あやまっ、わる、の、おれ、でっ」
・・・人間って、泣きすぎると最終的には脳からも塩分が出るんだと思う。ぐずぐずに崩壊しまくって云ってる本人にも何が何だかわかんなくなってる言葉を、それでも兄貴は正確に理解してくれた。
「うん、潤也も悪いよ」
あっさり云われてまたえずくように泣き出した俺の顔を、兄貴がほらほらとティッシュで拭いてくれる。
「珍しく何か悩んでるな、とは思ったんだけど、いつか云い出してくれると思ったんだよな。なのにいつまでも一人で悩んでて、最後には無視されるし」
冗談めかした云い方だけど、熱は大分引いたとはいえまだ胸は痛いらしい。ゆっくりゆっくりと喋る兄貴に『もういいよ』って云おうとしたら、一瞬先に止められた。
「でも、待ってちゃいけなかったんだよな」
顔を上げると、優しく細められたあかい瞳が目の前にあった。
「前に云ってただろ。ペットが死んだ子の話。拾うべきじゃなかったのかって」
「う、うん」
「最後に別れることが判ってるからって、一緒に過ごした日が無駄になる訳じゃないよな」
くしゃりと髪を撫でられる。少しだけ久し振りな、大好きな仕草。
「大事なのはさ、その日に後悔しない事だと思うよ。だから、毎日無駄にしないように生きていかなきゃならないんだよ」
─俺達、いつまでこうしていられるんだろうな─
兄貴は知っていた。俺の、悩みとも云えないような悩みの理由も、それに対する答えも。
きっと、兄貴は俺よりもずっと早くそれにぶち当たっていたんだ。そして苦しんだ。そう多分きっと、あの八月に。
そうして兄貴がたった一人で出した答えが何だったのか。俺にだってもうわかる。
だってそれこそが、二人で暮らした今日までの日々、そのものなんだから。
「にいちゃん」
「ん?」
「ごめんね」
「俺も、ごめんな」
いつかさよならする日は来るけれど。それは絶対に避けられないけれど。
いつか来るその時に、後悔しないように。
「にいちゃん」
「なに?」
「だいすき」
「俺もだよ」
俺達は生きていく。
END
潤也視点の話は一応回想という形を取っていますので、
台詞は「兄ちゃん」、地の文は「兄貴」です。
その割に現在進行形の部分もあったり、やけに大人びた
云い回しがあったりするので、もしかしたら違和感がある
かもしれません。が、そこはそれ、管理人の表現力の
及ばないところだと思って諦めて下さい・・・。
ほぼ同名タイトルの某小説とは当然全く無関係ですが、
結構古いし大丈夫よね~なんて思ってたら、まさに今日、
くだんの小説の「来年映画公開」の報を知って吹きました。
なんてタイミング。これもセレンディピティのなせる業か。
ただの偶然です。(わかる)
しかし今更他のタイトルも思いつかないので決行です・・・。
万が一検索でたどり着かれた方がいらしたらすみません。
ってここまで読まれるとは思えませんが。
(読まれたら読まれたでそれもまた(大汗))
あれ、珍しいな。と思った。
兄貴は庭で洗濯物干しを、俺は部屋で掃除機を─なんて、むかしむかしのじじばばみたいに2人がかりで家事を一通り終えた日曜午後、兄貴は片付いた居間のソファで本を読んでいた。
そこまでは、いつも通り。珍しいと思ったのは、そのあと。
兄貴が本を読んで笑ってる。
兄貴は漫画雑誌(主に俺が友達に借りた奴)なんかももちろん読むけど、それ以上に何やら難しい本を読んでる事が多いから、読書中は大概無表情だ。兄貴がそういう本を読むようになってからは、それが知らない人の顔を見てるみたいで、なんだか兄貴が遠い人になってしまったみたいで、だから子供の時はそんな兄貴にわざとちょっかいかける事がちょくちょくあった。そうすると兄貴は、困った顔と笑った顔を混ぜたような表情を浮かべて、なんだよ潤也ーと云いながら俺を見てくれる。その笑顔があんまり可愛かったものだから、結局俺は当初の目的を忘れて、兄貴が本を読んでる時は必ずちょっかいをかけるようになってしまった。こういうの知ってる?本末転倒って云うんだよ。
で、俺は今まさにそんな状況に陥っていた。
可愛かったなあ兄貴。今は可愛いんじゃないもんな。可愛くて、時々どきっとするくらい、きれいだ。
「・・・人の顔見て何ニヤニヤしてるんだ」
気がついたら、顔をしかめた兄貴がまっすぐ俺を見ていた。ああしまった、俺とした事が。気づかれない内に写メっとけば良かった。
「ニヤニヤしてたのは兄貴もだろ」
「?何が?」
「本読んでニヤニヤ。何なに?えっちなの?」
すかさず隣に移動して、どさくさ紛れに肩に腕を回す。雑誌を覗き込むのは振りだけだったのに、兄貴のTシャツの襟ぐりからちらりと見えた鎖骨に目が釘付けになった。
「ばか、そんな訳ないだろ」
そんな兄貴の呆れた声と一緒に、微かに喉仏が上下するのも見えて、そのままここに咬みついたらどんな声を上げるのかなあと夢想した。きっと本気で嫌がるに違いない。痛みさえ快楽に直結させて、はしたない声を止められない自分を、泣きながら恥じて。
「・・・えっち」
「はぁ?」
「やっぱり兄貴、えっちだ」
「こらこらこら!お前はどこを見て何を云ってるんだ!よく見ろ!」
そう云うと兄貴は、膝の上の雑誌をぐいと俺の目線まで近づけた。その指が差してるのは、小さな囲み記事と、白人と思しき男の写真。
今にも「HAHAHAHAHA」という外人笑いが聞こえてきそうなジェスチャーを見せているその写真を見て、俺は思わず『駄目だよ外人さんなんて!兄貴壊れちゃうだろ!』と口走りたくなるのをぐっとこらえる。
「えっと・・・これ何?」
「糸電話プロトコルの考察」
「・・・はい?」
そこからの兄貴の説明は、ネットでの通信方法がどーとか、その手順がどーとか、それが何故か"糸電話で伝送する方法"として大真面目に書かれたものがあってだな、というものだったけど、結論を云うと全くサッパリ理解不能。
「えっとそれ・・・面白いの?」
「さぁ」
「さぁって!さっきそれ見て笑ってたんでしょ!?」
「面白いなと思ったのはさ。こういう大真面目なジョークって日本人ではなかなか出ないなーってところ。そもそも発想が違うんだよな。日本人は、無意識に日常と非日常を切り分けるけど、欧米人は意識的に非日常を日常に取り込もうとする。たとえば」
「たとえば?」
「ハロウィンの仮装とか」
なるほど。確かに、どれだけ日本のお菓子会社やおもちゃ会社が頑張ったところで、地下鉄や学校が仮装した一般人で一杯になる状況なんてのは考えにくい。せいぜいが、ショップの店員やイベント会場どまりだ。
「こういうジョークプログラム見てたら、ネットが発達した理由も何となくわかるよ。いろんな国の人間が、独自の発想でよってたかって作り上げてるんだ。進化に欠かせない『多様性』と『発想の転換』、そのどちらにも事欠かない」
兄貴の云ってる事が全部解るかと云えば嘘になるけど、話している兄貴が楽しそうだって事は解る。だから、思ったままを口にした。
「もしかしたら、こういう事がやりたいんじゃないの?兄貴」
「こういう事って?」
「俺には解んないけどさ、プログラムとか。そーいうの」
俺がそう云うと、兄貴は少し驚いたような顔をした。ああやっぱりもう、この人は。
「俺の事とか、いいからな。兄貴はちゃんと自分の好きな道、目指してくれよな」
俺もノートパソコンは持ってるけど、せいぜいDVD(居間で観られないヤツ)を観たり動画サイト眺めたりする程度。だけど、兄貴は違う。いつも難しいサイトで何かを調べてて、ちらっと見たブックマークも小難しい名前ばっかりだった。まぁ、たまにビックリするくらいしょーもない雑学サイトとか、マニアックな特撮サイトなんかも真剣に見てるけど。
すると兄貴は仰々しく溜息をついて、
「そういうお前こそ、何がやりたいんだ?担任が嘆いてたぞ。主にお前の赤点について」
うわ、そうきましたか。俺は藪から蛇を出した後悔に襲われつつ、そういや鞄に入れっぱなしの三者面談のお知らせがあったなぁなどと思っていると、
「そろそろ三者面談も近いし、兄ちゃんとしてはそっちの方が気になるよ」
って、こっちも筒抜けですか!てか、兄貴どんだけ話し込んでんだよ担任と!
冗談めかした口調ではあったけど、本気で俺の事を思ってくれているのが解る。でも、だからこそ、ここは譲れないんだ。
だって、兄貴が俺の世話で貴重な青春無駄にするとか、そんなの不公平すぎる。今までいっぱい世話掛けた分(今も掛けてるけど・・・)、兄貴には絶対に幸せになってもらわなくちゃって、でもそんな事ストレートに云ったって、また『俺は今のままで幸せだよ』とか云ってくれるに決まってるから、だから俺もできるだけ軽い口調で云った。
「俺は多分、なるようになるって。このまんま大人になってこのまんま結婚して、んでこのまんまじいさんになる」
「いきなりじいさんかよ」
兄貴が吹き出した。だって、行き着くところったら結局はそこだろ?
「そうだな、きっとお前は格好良いじいさんになるよ。若い連中にも慕われるような」
「カリスマじいさん?」
「カリスマじいさん」
想像したらなんだかそれも悪くない気がした。うん、今度の面談では担任にそう云おう。
「兄貴もきっと可愛いじいちゃんになるよ。でさ、可愛いばあちゃんになった詩織と三人で、河原なんか散歩してさ」
俺がそう云うと、兄貴も笑ってくれた。
「・・・じゃあ、静かな山奥にでも住むか。世間から離れて、のんびりと」
それはとても幸せそうで、けれどどこか儚くて。
今にも空に溶けてしまいそうな笑顔だった。
「もしかしたら、こういう事がやりたいんじゃないの?兄貴」
思ってもみなかった指摘にどきりとした。
いや、本当は思っていたのに、意識して考えないようにしていたんだろうか。
俺達の両親は事故で亡くなった。今でも思い出せる、湿気を含んだ八月の暑さと、対比するような炎の渇いた熱。
二人が亡くなってしばらくの記憶には曖昧な部分が多い。それは子供だったからというより何よりも、兄弟二人で生きていく為になすべき事が多すぎたせいだろう。
感傷とは無関係に発生する手続きや段取りを機械的にこなし、その内周囲を見渡せる余裕が出てくると、自分たちの置かれている状況がまさに『不幸中の幸い』という言葉でしか表せないという事が判ってきた。
それは云うまでもなく、俺達に『家』が残されていたこと。そして、逆に『負の遺産』が残されていなかったことだ。もしもこの家が借家やローン物件だったら、俺達はとっくに引き離されていたに違いない。
最初の内はそれを亡き両親に感謝するばかりだったが、次第に違和感を覚えるようにもなった。
上手くは云えないが、できすぎているのだ。
記憶に残る両親は、似た者夫婦という言葉がぴったりの友達のような夫婦で、実際に歳も若かった。葬儀に来ていたのは両親の友人や仕事関係者が大半で、彼らは口を揃えてこう云った。『まだ若いのに』と。
つまり、まだまだ前途ある年齢だったのだ。にも関わらず、ローンは完済されていて、俺達に家が残された。決して大きくはないが、兄弟2人で住むなら十分な規模の、家が。
我ながら考えすぎだと思う。けれど。
「そういうお前こそ、何がやりたいんだ?」
極力、冗談めかした口調で返すが、多分気付かれているだろう。潤也は軽いように見えて、誰よりも人の心の機微に敏い。けれど、その敏さが過剰に働きすぎて、俺の事に関しては気を回し過ぎとしか思えない部分もあった。今がまさにそうだ。俺が潤也の犠牲になってるなんて、そんな事絶対にあり得ないのに。
もし潤也がいなかったら、もしあの時取り残されたのが俺一人だったら─と、思う度背筋が凍りつく。実際、両親が亡くなって以来、そんな悪夢を何度となく見た。汗まみれになって飛び起きては、隣に寝ているはずの潤也を探す。たまたまトイレに行っていて姿が無かった時などは、恐ろしさでこのまま気が狂うかと思った。
神様神様、もしもこちらが現実なら、今すぐ俺を殺して下さい─
暗闇の中で震えることもできずに祈った時、潤也が戻ってきて、俺は気を失うようにまた眠った。朝目覚めた時、潤也が俺の手を握っていたのは、決して偶然ではないと今でも思う。
お前に生かされてるのは俺の方だよ、と口には出さないけれど、敏い潤也はすべてお見通しなんじゃないかと思う。だからわざと明るい口調で返すのだ。
「俺は多分、なるようになるって。このまんま大人になってこのまんま結婚して、んでこのまんまじいさんになる」
「いきなりじいさんかよ」
口にした途端、想像の中の潤也じいさんのあまりの格好良さに吹き出した。自分の年老いた姿は想像できないけど、こいつはきっと良い歳の取り方をするだろうな、と思う。もし父親の老けた姿を見ていたら、もっとはっきり想像できるだろうか。
両親の葬儀の時に思った事だが、うちには親戚が少ない。年の離れた従姉妹などはいたが、彼らの親世代、つまりうちの両親から上の年代がほとんどいないのだ。
その事自体はさして不思議に思わなかったが、様々な書類を見ていく内に、ある事実を知った。
会ったことが無いのは当たり前だ。家系そのものがほぼ断絶していたのだから。
直系は元より、傍系の筋に至るまで、ある一定の年代でほとんどが死に絶えている。それも、調べられる限りではその全てが事故死あるいは原因不明の突然死で、家族に看取られての老衰などは一人としていなかった。祖父母ですら、そうなのだ。
かなり遠い筋の親戚を除けば、いま安藤という名で残っているのは俺達二人を含めてもごくわずかだった。
"偶然も三回続けば必然"という言葉の真偽は判らないが、その時、思った。両親は、気付いていたのではないか。いや、明確にではなくても、予感くらいはあったのかもしれない。
そう遠くない未来、自分たちが子供二人を残してこの世を去ることを。
「そうだな、きっとお前は格好良いじいさんになるよ。若い連中にも慕われるような」
記憶の中に残る、おぼろげな両親の姿を思い出す。父の顔は潤也によく似ていて、豪快によく笑う人だった。きっと職場でも慕われていたんだろう。葬儀の時には男も女も泣き崩れていた。
母はたおやかな人だった。けれど、決して間違った方向には折れない、強い人だった。しなやかで強い彼女の優しさを、なぞるように俺は生きてきた。
そして、両親は俺達に家を残してくれた。兄弟が二人で生きていく為の基盤を。
ならば、俺は?
俺は一体何が残せるんだろうか。
「兄貴もきっと可愛いじいちゃんになるよ。でさ、可愛いばあちゃんになった詩織と三人で、河原なんか散歩してさ」
潤也は夢見るように話す。おそらく来る事はないだろう、幸福な未来の夢を。
その象徴のような笑顔を見て、ああと思う。
俺は生かされてきた。潤也に。この笑顔に。
ちっぽけだけどかけがえの無い、無限の可能性の塊。俺の生きた証。
このために、俺はあの八月に生き残ったんだ。
「・・・じゃあ、静かな山奥にでも住むか。世間から離れて、のんびりと」
三人で、とは絶対に云えないけれど。でも、いつか。
いつかこれだけは気付いて欲しい。
俺が残せるのは、お前だ。
お前自身が、俺の形見だよ。
兄貴は庭で洗濯物干しを、俺は部屋で掃除機を─なんて、むかしむかしのじじばばみたいに2人がかりで家事を一通り終えた日曜午後、兄貴は片付いた居間のソファで本を読んでいた。
そこまでは、いつも通り。珍しいと思ったのは、そのあと。
兄貴が本を読んで笑ってる。
兄貴は漫画雑誌(主に俺が友達に借りた奴)なんかももちろん読むけど、それ以上に何やら難しい本を読んでる事が多いから、読書中は大概無表情だ。兄貴がそういう本を読むようになってからは、それが知らない人の顔を見てるみたいで、なんだか兄貴が遠い人になってしまったみたいで、だから子供の時はそんな兄貴にわざとちょっかいかける事がちょくちょくあった。そうすると兄貴は、困った顔と笑った顔を混ぜたような表情を浮かべて、なんだよ潤也ーと云いながら俺を見てくれる。その笑顔があんまり可愛かったものだから、結局俺は当初の目的を忘れて、兄貴が本を読んでる時は必ずちょっかいをかけるようになってしまった。こういうの知ってる?本末転倒って云うんだよ。
で、俺は今まさにそんな状況に陥っていた。
可愛かったなあ兄貴。今は可愛いんじゃないもんな。可愛くて、時々どきっとするくらい、きれいだ。
「・・・人の顔見て何ニヤニヤしてるんだ」
気がついたら、顔をしかめた兄貴がまっすぐ俺を見ていた。ああしまった、俺とした事が。気づかれない内に写メっとけば良かった。
「ニヤニヤしてたのは兄貴もだろ」
「?何が?」
「本読んでニヤニヤ。何なに?えっちなの?」
すかさず隣に移動して、どさくさ紛れに肩に腕を回す。雑誌を覗き込むのは振りだけだったのに、兄貴のTシャツの襟ぐりからちらりと見えた鎖骨に目が釘付けになった。
「ばか、そんな訳ないだろ」
そんな兄貴の呆れた声と一緒に、微かに喉仏が上下するのも見えて、そのままここに咬みついたらどんな声を上げるのかなあと夢想した。きっと本気で嫌がるに違いない。痛みさえ快楽に直結させて、はしたない声を止められない自分を、泣きながら恥じて。
「・・・えっち」
「はぁ?」
「やっぱり兄貴、えっちだ」
「こらこらこら!お前はどこを見て何を云ってるんだ!よく見ろ!」
そう云うと兄貴は、膝の上の雑誌をぐいと俺の目線まで近づけた。その指が差してるのは、小さな囲み記事と、白人と思しき男の写真。
今にも「HAHAHAHAHA」という外人笑いが聞こえてきそうなジェスチャーを見せているその写真を見て、俺は思わず『駄目だよ外人さんなんて!兄貴壊れちゃうだろ!』と口走りたくなるのをぐっとこらえる。
「えっと・・・これ何?」
「糸電話プロトコルの考察」
「・・・はい?」
そこからの兄貴の説明は、ネットでの通信方法がどーとか、その手順がどーとか、それが何故か"糸電話で伝送する方法"として大真面目に書かれたものがあってだな、というものだったけど、結論を云うと全くサッパリ理解不能。
「えっとそれ・・・面白いの?」
「さぁ」
「さぁって!さっきそれ見て笑ってたんでしょ!?」
「面白いなと思ったのはさ。こういう大真面目なジョークって日本人ではなかなか出ないなーってところ。そもそも発想が違うんだよな。日本人は、無意識に日常と非日常を切り分けるけど、欧米人は意識的に非日常を日常に取り込もうとする。たとえば」
「たとえば?」
「ハロウィンの仮装とか」
なるほど。確かに、どれだけ日本のお菓子会社やおもちゃ会社が頑張ったところで、地下鉄や学校が仮装した一般人で一杯になる状況なんてのは考えにくい。せいぜいが、ショップの店員やイベント会場どまりだ。
「こういうジョークプログラム見てたら、ネットが発達した理由も何となくわかるよ。いろんな国の人間が、独自の発想でよってたかって作り上げてるんだ。進化に欠かせない『多様性』と『発想の転換』、そのどちらにも事欠かない」
兄貴の云ってる事が全部解るかと云えば嘘になるけど、話している兄貴が楽しそうだって事は解る。だから、思ったままを口にした。
「もしかしたら、こういう事がやりたいんじゃないの?兄貴」
「こういう事って?」
「俺には解んないけどさ、プログラムとか。そーいうの」
俺がそう云うと、兄貴は少し驚いたような顔をした。ああやっぱりもう、この人は。
「俺の事とか、いいからな。兄貴はちゃんと自分の好きな道、目指してくれよな」
俺もノートパソコンは持ってるけど、せいぜいDVD(居間で観られないヤツ)を観たり動画サイト眺めたりする程度。だけど、兄貴は違う。いつも難しいサイトで何かを調べてて、ちらっと見たブックマークも小難しい名前ばっかりだった。まぁ、たまにビックリするくらいしょーもない雑学サイトとか、マニアックな特撮サイトなんかも真剣に見てるけど。
すると兄貴は仰々しく溜息をついて、
「そういうお前こそ、何がやりたいんだ?担任が嘆いてたぞ。主にお前の赤点について」
うわ、そうきましたか。俺は藪から蛇を出した後悔に襲われつつ、そういや鞄に入れっぱなしの三者面談のお知らせがあったなぁなどと思っていると、
「そろそろ三者面談も近いし、兄ちゃんとしてはそっちの方が気になるよ」
って、こっちも筒抜けですか!てか、兄貴どんだけ話し込んでんだよ担任と!
冗談めかした口調ではあったけど、本気で俺の事を思ってくれているのが解る。でも、だからこそ、ここは譲れないんだ。
だって、兄貴が俺の世話で貴重な青春無駄にするとか、そんなの不公平すぎる。今までいっぱい世話掛けた分(今も掛けてるけど・・・)、兄貴には絶対に幸せになってもらわなくちゃって、でもそんな事ストレートに云ったって、また『俺は今のままで幸せだよ』とか云ってくれるに決まってるから、だから俺もできるだけ軽い口調で云った。
「俺は多分、なるようになるって。このまんま大人になってこのまんま結婚して、んでこのまんまじいさんになる」
「いきなりじいさんかよ」
兄貴が吹き出した。だって、行き着くところったら結局はそこだろ?
「そうだな、きっとお前は格好良いじいさんになるよ。若い連中にも慕われるような」
「カリスマじいさん?」
「カリスマじいさん」
想像したらなんだかそれも悪くない気がした。うん、今度の面談では担任にそう云おう。
「兄貴もきっと可愛いじいちゃんになるよ。でさ、可愛いばあちゃんになった詩織と三人で、河原なんか散歩してさ」
俺がそう云うと、兄貴も笑ってくれた。
「・・・じゃあ、静かな山奥にでも住むか。世間から離れて、のんびりと」
それはとても幸せそうで、けれどどこか儚くて。
今にも空に溶けてしまいそうな笑顔だった。
「もしかしたら、こういう事がやりたいんじゃないの?兄貴」
思ってもみなかった指摘にどきりとした。
いや、本当は思っていたのに、意識して考えないようにしていたんだろうか。
俺達の両親は事故で亡くなった。今でも思い出せる、湿気を含んだ八月の暑さと、対比するような炎の渇いた熱。
二人が亡くなってしばらくの記憶には曖昧な部分が多い。それは子供だったからというより何よりも、兄弟二人で生きていく為になすべき事が多すぎたせいだろう。
感傷とは無関係に発生する手続きや段取りを機械的にこなし、その内周囲を見渡せる余裕が出てくると、自分たちの置かれている状況がまさに『不幸中の幸い』という言葉でしか表せないという事が判ってきた。
それは云うまでもなく、俺達に『家』が残されていたこと。そして、逆に『負の遺産』が残されていなかったことだ。もしもこの家が借家やローン物件だったら、俺達はとっくに引き離されていたに違いない。
最初の内はそれを亡き両親に感謝するばかりだったが、次第に違和感を覚えるようにもなった。
上手くは云えないが、できすぎているのだ。
記憶に残る両親は、似た者夫婦という言葉がぴったりの友達のような夫婦で、実際に歳も若かった。葬儀に来ていたのは両親の友人や仕事関係者が大半で、彼らは口を揃えてこう云った。『まだ若いのに』と。
つまり、まだまだ前途ある年齢だったのだ。にも関わらず、ローンは完済されていて、俺達に家が残された。決して大きくはないが、兄弟2人で住むなら十分な規模の、家が。
我ながら考えすぎだと思う。けれど。
「そういうお前こそ、何がやりたいんだ?」
極力、冗談めかした口調で返すが、多分気付かれているだろう。潤也は軽いように見えて、誰よりも人の心の機微に敏い。けれど、その敏さが過剰に働きすぎて、俺の事に関しては気を回し過ぎとしか思えない部分もあった。今がまさにそうだ。俺が潤也の犠牲になってるなんて、そんな事絶対にあり得ないのに。
もし潤也がいなかったら、もしあの時取り残されたのが俺一人だったら─と、思う度背筋が凍りつく。実際、両親が亡くなって以来、そんな悪夢を何度となく見た。汗まみれになって飛び起きては、隣に寝ているはずの潤也を探す。たまたまトイレに行っていて姿が無かった時などは、恐ろしさでこのまま気が狂うかと思った。
神様神様、もしもこちらが現実なら、今すぐ俺を殺して下さい─
暗闇の中で震えることもできずに祈った時、潤也が戻ってきて、俺は気を失うようにまた眠った。朝目覚めた時、潤也が俺の手を握っていたのは、決して偶然ではないと今でも思う。
お前に生かされてるのは俺の方だよ、と口には出さないけれど、敏い潤也はすべてお見通しなんじゃないかと思う。だからわざと明るい口調で返すのだ。
「俺は多分、なるようになるって。このまんま大人になってこのまんま結婚して、んでこのまんまじいさんになる」
「いきなりじいさんかよ」
口にした途端、想像の中の潤也じいさんのあまりの格好良さに吹き出した。自分の年老いた姿は想像できないけど、こいつはきっと良い歳の取り方をするだろうな、と思う。もし父親の老けた姿を見ていたら、もっとはっきり想像できるだろうか。
両親の葬儀の時に思った事だが、うちには親戚が少ない。年の離れた従姉妹などはいたが、彼らの親世代、つまりうちの両親から上の年代がほとんどいないのだ。
その事自体はさして不思議に思わなかったが、様々な書類を見ていく内に、ある事実を知った。
会ったことが無いのは当たり前だ。家系そのものがほぼ断絶していたのだから。
直系は元より、傍系の筋に至るまで、ある一定の年代でほとんどが死に絶えている。それも、調べられる限りではその全てが事故死あるいは原因不明の突然死で、家族に看取られての老衰などは一人としていなかった。祖父母ですら、そうなのだ。
かなり遠い筋の親戚を除けば、いま安藤という名で残っているのは俺達二人を含めてもごくわずかだった。
"偶然も三回続けば必然"という言葉の真偽は判らないが、その時、思った。両親は、気付いていたのではないか。いや、明確にではなくても、予感くらいはあったのかもしれない。
そう遠くない未来、自分たちが子供二人を残してこの世を去ることを。
「そうだな、きっとお前は格好良いじいさんになるよ。若い連中にも慕われるような」
記憶の中に残る、おぼろげな両親の姿を思い出す。父の顔は潤也によく似ていて、豪快によく笑う人だった。きっと職場でも慕われていたんだろう。葬儀の時には男も女も泣き崩れていた。
母はたおやかな人だった。けれど、決して間違った方向には折れない、強い人だった。しなやかで強い彼女の優しさを、なぞるように俺は生きてきた。
そして、両親は俺達に家を残してくれた。兄弟が二人で生きていく為の基盤を。
ならば、俺は?
俺は一体何が残せるんだろうか。
「兄貴もきっと可愛いじいちゃんになるよ。でさ、可愛いばあちゃんになった詩織と三人で、河原なんか散歩してさ」
潤也は夢見るように話す。おそらく来る事はないだろう、幸福な未来の夢を。
その象徴のような笑顔を見て、ああと思う。
俺は生かされてきた。潤也に。この笑顔に。
ちっぽけだけどかけがえの無い、無限の可能性の塊。俺の生きた証。
このために、俺はあの八月に生き残ったんだ。
「・・・じゃあ、静かな山奥にでも住むか。世間から離れて、のんびりと」
三人で、とは絶対に云えないけれど。でも、いつか。
いつかこれだけは気付いて欲しい。
俺が残せるのは、お前だ。
お前自身が、俺の形見だよ。
END
安藤パパママは云うまでもなく捏造です。
あくまで管理人のイメージですので、
「違ーう!もっとこう・・・!」と思われた
としても、何も云わずにそっとブラウザを
閉じて下さい。
糸電話プロトコルなんて物はありません(多分)。
ホントは実在する有名なヤツを使おうと思った
んですが、もし全然関係ない人が検索でたどり
着いちゃったらさすがに申し訳ないと思い、
ぐぐってみたら、自分自身の過去のつぶやきが
まんまと引っかかってしまい(そいや前に書いてた)
慌てて捏造した次第。使いたかったなー伝○鳩・・・。
あくまで管理人のイメージですので、
「違ーう!もっとこう・・・!」と思われた
としても、何も云わずにそっとブラウザを
閉じて下さい。
糸電話プロトコルなんて物はありません(多分)。
ホントは実在する有名なヤツを使おうと思った
んですが、もし全然関係ない人が検索でたどり
着いちゃったらさすがに申し訳ないと思い、
ぐぐってみたら、自分自身の過去のつぶやきが
まんまと引っかかってしまい(そいや前に書いてた)
慌てて捏造した次第。使いたかったなー伝○鳩・・・。
どこかでお会いしましたか?
─ああ失礼。前にどこかでお会いしたような気がしたものですから。
え、私の事をご存知で?
いえいえ、私なんぞはええ、あれですよ。腰巾着と云う奴で。いやいや本当ですって。
いやぁ、私は普段こんな小洒落た店には来ないんですがね。知り合い・・・というか仲間というか、友人というか・・・そう、同志。同志がね、残した店なんで。もういないんですけどねその男も。
─ええ、久しぶりですね。この街に来るのは。変わったようで変わっていない・・・。
おや、あなたもここのご出身で?・・・そうそう、昔は荒れてましたよね、この辺も。
私もねぇ、若い頃はバカばっかやってましてね。いっぱしのギャング気取りで、チンケな悪さばっか。
─きっかけ?そりゃあなた、あの人ですよ。ええ、その人。
やー、衝撃的な出会いってのはあの事ですね。なんたってバットで殴っちゃったんだから。いや、俺がね、あの人を。
─俺はね、いやこんな事云っても言い訳にしか聞こえないでしょうけど、本当にこの街が好きだったんですよ。や、ホント。じゃなきゃチーム名に街の名前なんか付けないでしょ?あ、知らないか。
・・・え、知ってる?・・・そうそれ。へえぇ・・・や、まさかアンタ、いえあなた、もしかしてその時の被害者の1人だったり・・・しない?あ、違うの?そうだよねぇ、アンタじゃ若過ぎるもんねえ。
というかホントに若く見えるけど、まさか未成年って事はないよね?・・・ああいやいや、失礼しました。
─その後?いやもう、謝りまくりよ。近所の奥さんから遠くのご老体まで、いままで迷惑かけた人判るだけ全部、平謝りの土下座行脚。
でもさ、おかしな話だけど、土下座って気持ちイイのね。いや、別に変な趣味じゃなくってさ。なんかこう、開き直りの極致みたいな。煮るなり焼くなりどうとでもして下さいって気分なのよ。
でもそうするとね、向こうは元々善良な市民な訳だからさ。顔上げて下さいって、もういいですって、許してくれちゃうんだよね。そしたらこっちはもう、号泣よ。俺ぁアンタ達の為なら何でもしますーって気になっちゃうのよ。
・・・そうそう、アンタ物知りだね兄さん。『この世で一番贅沢な娯楽は誰かを許す事だ』って奴。あの人も昔よく云ってたなぁ。
娯楽なんて随分ひねくれた言葉だけどさ、許してもらう側の快感ったら実はそれ以上な訳。解るかい?
─俺ね。ホントこの街が好きだったのよ。
それがなんだか訳解んない内に、訳解んない連中がドカドカやってきてさ。新都心だなんだってもてはやされて、子供の遊び場全部潰して。ばんばんビル建てて、商店街なんかドンドン寂れてってさ、それでも新都心さえ完成すればってみんな頑張ってたのに、気がついたらバブルが弾けたとかで、あっという間にゴーストタウンよ。
悲しかったね。悲しくて泣けて怒って。もうこんな街壊れちまえってね。
─ああ、まあね。だからって暴れていい道理は無いやなァ。うん、解っちゃいたんだ。・・・いや、解ってなかったのかな。
ははは、兄さんアンタ優しそうな顔して結構キツいね。いやいや謝んなくていいよ、事実だもん。
─そっか、アンタ誰かに似てるなあって思ってたけど、あの人に似てるわ。昔の。
いや、顔とかじゃなくてね、なんてーか、若いのにやたら物知りなとことか、優しい顔してキッパリしてるとことかさ。・・・あとはあれだ。体ん中に一本真っ直ぐな芯があってさ。ブレねぇの。アンタ似てるよ。あの頃の、犬養さんに。
今?そりゃ今だってもちろんあの人は強いさ。強くて、ブレねぇ。・・・けど、なんかな。ここんとこ、迷ってるみてぇなんだ。迷ってる?違うな、探してんだ。
『誰か』なのか『何か』なのかわかんねぇんだけど、あの人ァこの頃ずっと何かを探してんだよ。
・・・ああ、もしかしたら、アンタみたいな人を探してんのかも知れねぇなぁ。
俺?俺らじゃ駄目なんだろうさ、きっと。情けねぇけどよ。
─知ってるかい?明日、旧猫田スタジアムでさ、・・・そうそれ。なんだやっぱりアンタも来てくれるつもりだったのかい。そうだよな、猫田市民にとっちゃ英雄の凱旋だ。お祭りだよな。
うん、きっと今の犬養さんには、アンタみたいな人が必要なんだよ。一本筋が通っててさ、何があってもびくともしねぇ、アンタみたいな若い人が。
─あ?そりゃもちろん俺ァあの人の傍を離れやしねぇよ。やっと見つけた生き甲斐だもん。地獄だろうがどこだろうがお供しますってーの。
・・・ああ、ありがとよ。兄さんやっぱ優しーねぇ。
あー、なんか変な夜だな、今日は。明日はやること山積みだってぇのに、いいのかなこんなとこでこんな時間まで・・・って、あれ?随分呑んでた気がしたけど、まだ全然じゃねぇの。
─ああ、もうお帰りで?いやいや、すみませんでしたね、つまんない話ばっかり聞かせてしまって。
ところでずっと気になってたんですけどね、あなたの呑んでるそれ。・・・ははあ、グラスホッパーって云うんですか。いや綺麗な緑色ですな。そうですか、グラスホッパー・・・。
─いや、私はもう少し呑んで帰ります。ええ、せっかくですから、グラスホッパーをね。
それでは、おやすみなさい。
-----------------------------
ああマスター、俺にもひとつ頂戴。グラスホッパーっての。
・・・あれ?そういやマスターなんか久し振りじゃない?アンタ確か・・・ええっと、どこ行ってたんだっけ。まぁいいや。
最近どう?俺はさ・・・
END
中村太郎君について本気出して考えてみた。
花になんかなれなくてもいい
その日、教室はなんだかいつもよりざわついていた。
正確に云えば特にやかましい訳じゃなかった。いや、確かにやかましいんだけど、その「やかましい」のをみんなして一生懸命隠そうとしてるみたいな、不自然なやかましさ。これってあれかな、「浮足立ってる」って感じ?
その理由は二時間目の終わりに判った。
「昨日保護者会あったじゃん?」
後ろの席から掛けられた言葉に、ああと思い当たる。
「そういや、兄ちゃんがなんか担任からプリントもらってた」
「お前ンちって、そーいうのも全部兄貴なん?」
「うん。親いないし」
一応、名目上の保護者だか後見人だか、そんな立場の人はいたらしいけど俺にはよく解らなかったし、その人は近くに住んでる訳でもなかったから、俺にとって確かなのは、ウチの『大黒柱』は間違いなく兄貴だという事。ただそれだけだった。
「そっかー」
ウチに兄貴と俺しかいないのはクラスのみんなが知ってる事なので、今さら特別どうこう云われる事もない。そいつは「でさー」と話を続けると、何か内緒話でもするみたいに声を落した。
「野外学習近いじゃん?んで、なんか、今日やるみたいなんだよね」
「何が?」
「せーきょーいく」
とっさに頭の中に漢字が浮かばなくて「?」を顔に張り付かせたけど、そいつの妙にへらっとした顔見てたら思い当った。
「あー。ほけんたいくのあれ?」
「そうそう。んでさー、なんかウチの親朝ッパラからやたら話ししたそーにしてんだけど、今さらじゃん?」
「まーなー」
確かに、今さらな感じ。そりゃもちろん小学5年生で体験なんてある訳ないけど、漫画だってネットだってそんな情報ばっかりなんだし。知らない方がおかしいって。
「・・・だからかな」
「なにが?」
「兄ちゃん。朝なんかそわそわしてた」
「あー・・・」
保護者は大変だよなーなんて他人事みたいに云いながら、そいつは席についた。
チャイムの挟間に「ムセイってした事ある?」とか云う声がやたら響いて、何人かの女子の「うっさいバカ!」という声がそれに被った。
頼まれてたお遣いをして家に帰ると、しょうゆで玉ねぎを煮るどこか甘い匂いが漂っていた。途端にぐぅと鳴るお腹を押さえてキッチンに飛び込む。
「ただいま!今日のごはんなにー?」
「親子丼。卵安かったから」
「やった!」
親子丼は、先週の調理実習で習ってたメニューだ。多分、異様に子沢山な親子丼であることは想像に難くなかったけど、兄貴のご飯は基本的に何でも美味しい。
兄貴の隣に並んで、これも調理実習で習ったポテトサラダを作る。ほこほこのジャガイモを潰しながら、兄貴も去年せーきょーいくの授業受けたのかなあ、なんてふと思った。
「兄ちゃんも去年セックスの授業聞いた?」
途端、ごふぅと潰れた通気口みたいな音をたてて兄貴は咳き込んだ。
「だ、大丈夫兄ちゃん!?」
「っ・・・だいじょぶ・・・じゃな・・・」
ご飯が気管に入ったらしく、涙目で深刻な咳を繰り返す兄貴に慌てて冷たいお茶を差し出す。
何度か発声練習みたいなのをして、ようやく人心地がついたらしい兄貴は、まだ潤んでいる瞳で俺を睨むと、
「・・・その話は、後で」
と、低い声で云った。
そのいつにない迫力に気圧されて、俺はただぶんぶんと頷いていた。
「お前な、間違ってもああいう事を外で云うんじゃないぞ」
晩御飯を終えて洗い物を片付けた後、リビングのソファに座るなり兄貴は云った。
「ああいう事って?」
とぼけた訳じゃなくてホントに判らなかったんだけど、兄貴はぐぅと言葉に詰まる。
「・・・セッ・・・とか、なんとか」
と、ようやく絞り出したみたいな声でぼそぼそと云った。
「なんで?別に恥ずかしい事じゃないんでしょ?」
本気で不思議に思って訊くと、兄貴が真正面からずずいと寄って云った。
「いいか、『恥ずかしい事じゃない』のと『恥じらいがない』ってのは別物だ」
「う、うん」
正直な所俺にはよく解らなかったけど、兄貴が耳まで真っ赤にして力説するものだから、なんだか釣られて赤くなってしまった。そうか、これが恥じらいって奴なんだな。
「もう云わない」
「よし」
何がいいのか解らないけど、ともかく兄貴は頷いてくれた。
けど、そんな兄貴のほっとした顔を見てたら、ちょっと悪戯心が湧いてきて。
「でも、俺・・・」
「どうした?」
「ホントはあんまりよく・・・解ってないんだよね」
「え?」
「兄ちゃん、教えてよ」
「・・・!」
ちょっと心細そうに上目遣いで見て、主語が何かは云わないのがコツ。すると兄貴は思った通り、これ以上赤くなれるんだぁと感心したくなるくらい真赤になった。
(・・・ていうか)
考え事をする時の癖で手を口に当てて、潤んだ眼を伏せがちにして必死で考えをまとめてるっぽい兄貴を見てたら、何だか可愛いのを通り越して可哀想になってしまって。
『ごめん、冗談』って解放してあげようとしたら、兄貴がキッと顔を上げた。
「ちょっと待ってろ」
「へ?」
そう云ってリビングを出ていく兄貴を見送って、一体何が始まるんだろうと首を傾げる。
(実地で教えてくれるとか?)
なんて、冗談で思った筈なのに、心臓が破れるかと思うくらいドキドキしだして、俺はみっともなくうろたえる。考えちゃいけないと思いつつも、頭の中では潤んだ瞳で俺を見上げる兄貴の姿が上映されてて、って、一体なに考えてんの俺!
「お待たせ」
「わあぁぁぁぁぁごめんなさいごめんなさい!」
やましい心を見透かされたようなタイミングに、思わず条件反射でごめんなさいと口走る俺。その時、兄貴の手に持っているものが目に入った。
「・・・本?」
キョトンとした兄貴の持っているものは・・・植物図鑑だった。
「いいか、花にはめしべとおしべがあってだな・・・」
目の前に図鑑を広げて解説する兄貴。どこまでも真剣なその表情に、俺はもう一遍心の中で謝った。ごめんなさい兄ちゃん。俺はあなたを汚すところでした。
「こら、聞いてるか?」
「き、聞いてます聞いてます」
「よし」
生真面目に頷くと、兄貴はまた解説に戻る。最初のうちはあんまり聞いてなかったけど、兄貴は元々妙に説得力のある話し方をするので(俺にだけ?)、気がついたらかなり真剣に聞き入っていた。
─そして、5分後。
「え・・・お花もセックスすんの!?」
「だからそういう事大声で云うなって!」
「ご、ごめん」
けど、ホントに俺はビックリしていた。だって、俺はそれまでセ・・・あんな事、動物しかしないものだと思ってたから。
「それじゃ、植物が途絶えちゃうだろ。方法は違うけど、子孫を残すメカニズムはどんな生物でも持ってるんだ」
「ふぇ~」
そうか、俺たちお花と一緒なんだ。
それは、俺にとっては結構衝撃的な事実だった。けれどすぐに俺はその考えを否定する。
俺たちが、じゃない。正確には兄貴が、だ。
一生懸命に話す兄貴の、まだほんのり赤い首筋は片手で簡単に折れそうな程に細くて、植物図鑑の中で健気に咲く花の姿に重なった。
お花なのは兄貴1人。やっぱり俺は爪も牙もある動物でなきゃ。
だって俺たち2人ぼっちなのに、2人とも花だったら何も守れない。
兄貴を、守れない。
「・・・どうした?兄ちゃんの云ってる事、難しいか?」
急に黙り込んだ俺を気遣ってか、心配そうに顔を覗き込んできた兄貴にふるふるふる、と頭を振る。
違う、全然違うよ。解ったんだ、俺。
「ね、兄ちゃん」
「う、うん」
「キスしていい?」
「・・・は?」
目を点にしている兄貴に、ソファの上でじりじりと膝を詰めて近付いた。
「しよ?」
「いや待て待て待て。お前今までの話ちゃんと聞いてたか!?」
「聞いてたよ。だからキス」
「しない!」
えーと不満の声を上げると、兄貴は『話はこれでおしまい』とばかりに図鑑を閉じた。別にいいじゃんかキスくらい~と尚も食い下がるけど、兄貴の答えはにべもない。
「いいか、キスってのは好きな人とするもんだ」
「だったら問題ないじゃん」
「・・・言葉が足りなかった。好きな『女の子』とするもんだ」
兄貴は相変わらず真赤になりながら、恥ずかしいのかそっぽを向いてこんこんと諭す。そりゃ、女の子とだってするけどさ。いいじゃんか別に兄弟でしたって。
しつこくお願いしながら、兄貴は結構頑固だから、これ以上云ってもダメかなぁなんて諦めモードに入ったその時、
「・・・男同士とか兄弟で、ふざけ半分でやっていい事じゃ・・・」
兄貴が呟いた言葉を聞いたら。
「ふざけてなんかない!!」
自分でも思っても見なかったくらい大きな声が出て、目の前の兄貴はもちろんビックリしてたけど、俺も同じくらいビックリしてた。
ふざけてなんかいない。興味本位でもない。
解ったんだ。なんで兄貴の傍に俺がいるのか。なんで、兄貴だけでも俺だけでもなく、2人ぼっちなのか。
兄貴がいなかったら、俺はとっくに死んでた。息はしてても、死んでるのと同じだった。
けど、それは兄貴も同じだったんだ。
だって、簡単に踏み潰せてしまう小さな花を、守ってやれるのは俺だけだから。
爪も牙もある、俺だけだから。
俺は多分その時初めて、父さんと母さんに感謝した。俺の兄貴を生んでくれて、俺に生きる意味をくれて、ありがとうって。
そっか、これがあいしてるって事なんだって。
そう思ったら自然に、兄貴を抱きしめたくなった。ううんそれだけじゃなくて、心臓の動きが判るくらい近くで触れて、その口がちゃんと息をしてるのか確かめたくなった。
だからキスをしたかったのに。
(どうしてわかってくんないんだよ兄ちゃんのばか!!)
「な・・・泣くなよぉ」
「泣いてないよ!」
嘘だった。俺は元々泣く事にあんまり抵抗が無い方だけど、兄貴の前では特によく泣く。そうすると兄貴はそれまでの頼もしさが一転して、おろおろとどっちが泣いてるのか判らない様子で俺を宥めにかかる。その様子があんまり可愛いから俺はよく嘘泣きも使ったけど、今度はホントに泣いていた。けど、認めたくなかった。
こんなにもいとおしくて泣きたいくらいどうしようもないのが自分ひとりだけだなんて、そんなの絶対に認めたくなかったから。
─その時。
小さく、小さくほんの微かに、俺の頬でちゅっと何かが鳴った。
「・・・っこれでいいだろ!」
見返すと、目元まで真赤にした兄貴がいた。そんなに赤くなったら死んじゃうよなんて見当外れの言葉が喉元まで出かけて、でも実際に口を衝いて出たのは。
「何?今の」
「・・・・・・きす」
「違う!あんなのいつものおやすみのチューじゃん!全っ然違うよ兄ちゃん!」
「ばっ・・・・・・最近はしてないだろ!?てか、じゃあどうしろって云うんだよ!」
「こうだよ!」
最初に掴んだのは、手首。俺の指が余る程の細さにまず驚いた。それから、小さな唇に。柔らかそうなのにどこか造りものめいたそれから、眼が離せない。
こんなにも、何もかもが壊れそうなほど頼りないのに。
ねえ、本当にちゃんと生きてるの?
「・・・っ・・・!」
それは口づけるというより、咬みつくといった方が近かったも知れない。
零れる吐息も逃がさないように、口をずらしてぴったりと、少しの隙も無く閉じ込めて。
逃げ出そうと暴れる何かに気がついて、押さえつけてみたら舌だった。甘さと錯覚しそうな程に柔らかく、けど懸命にもがく舌がなんだかいじらしくて、無骨な俺の舌を絡めたらくぐもった声が漏れた。それで俺はまた馬鹿みたいに興奮した。
じくじくとこめかみが脈打って、血の巡りが判るくらいに胸がどきどきしているのが判る。けど、ぴったり体がくっついているから、このどきどきがどちらのものかが判らない。
俺だけだったらどうしよう。そう思った途端冷たい焦りが背筋を走り抜けて、気がついたら兄貴のTシャツの中に右手を忍ばせていた。左手と唇で押さえつけながら、俺よりも少しだけ体温の低い、滑らかな肌に直接手をやる。
俺のそれと同じくらい─いや、それ以上に強く感じる鼓動に安心して、すっと手のひらをずらすと、小さくて、けどしっかりと固い感触を伝える粒に触れた。
途端、電流に触れたみたいにびくんと跳ね上がった体に驚いて、思わず手首を放してしまう。その隙を見逃さず、兄貴は俺の支配下から抜け出した。
(あーあ、終わっちゃった)
もっと味わっていたかったのに─なんて呑気な感慨は一瞬。次の瞬間、身を守るように縮こまった兄貴の顔を見て、俺はざっと青ざめる。光の加減で時々紅色にも見える黒目がちな瞳が、今は雫が零れそうな程に濡れていた。
・・・ヤバい!泣いちゃう!
守るべき花を無残に踏みつけてしまった、そんなイメージがすっと脳裏に浮かんだ。
「ご、ごめ・・・」
余程ショックだったんだろうか。兄貴はどこかぼうっとしたような表情で、その痛々しさに、俺の興奮はすっかり冷めてしまっていた。
けど、後悔はしてない。
だって、もしあの時に戻れるとしたって、俺は絶対また同じことをするから。
「じゅん、や・・・」
その時、兄貴が俺を手招きした。その、痛々しくもどこか艶めかしい表情に、またろくでもない思いがもたげかけるのをねじ伏せてその傍に近寄る。
「・・・」
「え、なに?」
囁くような声が聞こえ辛くて耳を寄せるのと、
「・・・こンのばかたれっ!」
脳天に物凄い衝撃を受けて昏倒するのとは、ほぼ同時だった。
-------------------------
(・・・青かったなぁ・・・俺も・・・)
などと、しみじみ思いながら俺は回想モードを終了した。
今頃になって懐かしい事を思い出したのは、一冊の本のせいだった。
小難しい本で一杯の兄貴の本棚を整理していたら、一番下の棚から出てきた、やたら古くてずっしりと重い本。
子供向けのカラー図鑑は、大きくて無闇に場所を取る。兄貴はこれをシリーズで持っていたけど、滅多に読み返す事も無いからと、クローゼットの奥にしまっていたはずだった。
それが、どうしてこの一冊だけここにあったのか。今となっては解らない。
俺は、その植物図鑑を大切に抱くと、主がいなくなってずいぶん経つ部屋を出た。
俺の花はあの時枯れてしまったけど。
大切なものを守る為、花弁よりも牙が欲しいと思った、その思いの種子は今もここにある。
(だから俺達はずっと一緒だよ)
賭けてもいいよ。
END
8/9、追悼文。
たんぽぽになりたかったライオンの唄。
夏だからって心霊特集なんて観るもんじゃない。
ましてやそれが折悪しく蛍光灯が切れて突然真っ暗になったリビングで、灯りはテレビの心霊番組のみ、という最悪の状況の中なら尚更だ。いや、言い訳をさせてもらえば、何も好き好んでそんな番組にチャンネルを合わせた訳じゃない。兄貴とよく観たドラマの再放送、兄貴とよく見たローカルニュース、そんな無害な番組をいくつか経て、気がついたらそれは始まってた。
タチが悪い。いつの間にかそこにいるなんて、あいつら"せせらぎ"と一緒だよ。
「ちょ・・・っヤバイってそれ。てかなんでこいつらわざわざカメラ持って廃病院なんか行くんだよ。バカだろマジで」
「そりゃ、そういう企画なんだから」
テレビに向かって本気で悪態を吐く俺の後ろで、「仕方ないだろ」と兄貴が呆れたように云う。
でもさ、ただの病院だって夜は不気味なのに、よりによって廃病院で肝試しって、正気の沙汰じゃないでしょ。
「まあ、日本は資本主義だから」
「な、なんでいきなり資本主義?」
途端に蘇る赤点の記憶に動揺していると、兄貴はさらりと云った。
「金になるならなんでもやる」
「・・・なるほど」
お金になるのか。それなら仕方がないよな。
この国では人の不幸だって資本だよ、と、いつか兄貴がニュースを観ながら呟いた事を思い出す。
─それにしても。
「なんでかな」
「何が?」
「兄貴、ジェットコースターとかは怖がる癖に、なんで幽霊は怖くないのかなって」
「いや、そもそもジェットコースターと幽霊は同列じゃないだろ」
「あと、"せせらぎ"も」
せせらぎ?と一瞬考える気配の後、事も無げに
「ああ、ゴ」
「云ーうーなー!」
俺は耳を塞いで、その忌々しい4文字から身を守る。これだから、うちの兄貴は繊細なのか豪胆なのか判らない。だって、あんなおぞましい生き物のフルネームを口に出来るだけじゃなく、新聞紙製のジョーダンバットで一撃の元に倒したりも出来るんだぜ!
今まで何度となく見てきた兄の勇姿─だけならともかく、その容赦ない打撃で潰されたアレのなれの果てまで思い出してしまい、俺は大きく身震いした。
「そりゃ、男が2人して逃げ回ってたって事態は変わらないだろうが」
何気なく云われた言葉がグッサリ刺さる。
・・・虫一匹倒せない弟でゴメンよ兄貴・・・。
考えてみたら俺って、料理はできないし洗濯物畳むのも下手だし、家計簿なんて当然つけらんないし。できる事と云ったら庭の草むしったり電球取り換えたりする程度だけど、でもそれって兄貴にもできる事だし。
考えるな、考えるなマクガイバー。兄貴の口癖とは真逆の言葉を呪文みたいに唱えてみるけど、暗雲のように立ち込めた焦りは薄れない。うわ、もしかして俺ってとんだ役立たずですか!?
「ばか、何云ってんだ」
途端、呆れたような兄貴の声が響く。
「役に立つとか立たないとか。そういう事じゃないだろ」
「・・・俺、今口に出してた?」
「結構な大音量で」
がっくりと項垂れた俺を慰めるように、兄貴の手のひらがぽんぽんと肩を叩く。
「"あるはずがないから怖い"事って、あるよな」と、兄貴は静かに云った。
「・・・兄貴?」
「けど、どんな物事だって、理由も意味も無く起こったりはしない。一見、不可解なように見えても、それは単に理解ができないだけなんだ。"わからない"イコール"ありえない"じゃあないんだよ」
それが、さっきの「なぜ幽霊が怖くないのか」という問い掛けに対する答えだという事に、一瞬後で気付く。
「・・・じゃあ、幽霊も?」
「見る側の視力の問題かも知れないし、罪の意識や願望が生み出したものかも知れない。昔から云うだろ?『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って」
兄貴の声は淀みがなくて、心地いい。たとえるならそうだな、せせらぎのような、と思いかけて、せせらぎというネーミングはあの黒い悪魔にくれてやったんだと思い出す。もったいない事をした。
「出る側の理由は?」
内容なんか何だっていい。ただ、もっと声が聞きたくて投げかけただけの質問に、そうだな、と兄貴は生真面目に答える。
「ポピュラーなのは、墓場の人魂とか。あれは遺体から出たリンが空気中で燃える現象だとか云われてるな。本当かどうかは知らないけど。・・・あとは、本人が死んだ事に気付いてないとか、恨みが強くて死に切れないとか」
「他には?」
「・・・心配でつい見に来た、とか」
「たとえば、どんな時?」
「大事な弟が、ウッカリ夜中に一人で心霊特集を観て泣いてる時」
くすりと漏れた笑いに、「泣いてないよ!」と反論しながら、俺もつられて笑う。
肩に載せられた手のひらは、いつの間にか退いていた。
「・・・だから?」
俺は、振り返らない。
「心配で、つい見に来た?」
ふっと、微笑む気配があった。
─『行ってらっしゃい。気をつけるんだぞ』─
思い出すのは、最後に交わした言葉。
どうしてあの時、掴まえておかなかったんだろう。
二度と触れられないって判ってたら、絶対に離したりしなかったのに。
一人きりになんて、しなかったのに。
あれはいつのお盆だったか。親父とお袋は帰ってきたのかなと、見よう見まねで迎え火を焚きながら無邪気に兄貴に尋ねた事があった。帰ってきたなら、もっとそれらしく教えてくれればいいのに。姿を現すのは無理でも、たとえば合図くらいくれてもいいのにな、と。
そうしたら兄貴は云ったんだ。それなら─
『それなら、俺はちゃんと判るように帰ってくるよ』
穏やかな、笑顔で。
『他の誰に理解できなくても、お前にだけは』
俺より先に兄貴が死ぬなんてそんな不吉なこと云うなよって叫んだあの時の方がよっぽど俺は泣きたい気持ちだったんだ。
いつの間にか、テレビが消えている。電球の切れたリビングは相変わらずの暗闇で、眼を開けていても閉じてるみたいだった。
振り向いても、きっと何も見えない。そこに兄貴がいるはずもない。
だってこれは俺の願望が見せた幻だから。(もしくは罪の意識?)
両方かもしれないな、と思う。
大切な人たちを守るためという大義名分の元で、ひどい事をたくさん、たくさんした自分を、俺は赦して欲しいのか、それとも叱って欲しいのか。
その時、ぽふん、と。
頭の上に温かいものが載せられた。
その、優しくて懐かしい感触と一緒に、
「お前はよく頑張ってるよ」
ほんとはそれだけ云いに来たんだ、と。
囁く声が聞こえた、気がした。
目が醒めると、ソファの上だった。
いつの間に寝たのかも思い出せないけど、ちゃんとテレビは消えていた。
夕べはあのクソ忌々しい心霊特集が始まったと思ったら急に電灯が落ちて、でもって・・・?
起き上がって、ふと首を傾げる。
俺、ここで寝るつもりだった訳でもないのに。
─なんでタオルケットなんか掛けてるんだ?
「おはよう、潤也くん」
「おはよ」
校門の少し前、いつもの曲がり角で姿を見せた詩織に挨拶をする。すると隣に並んだ詩織が、少しして俺の顔を覗き込んできた。
「なに?」
「なんか、ご機嫌?」
「んー」
そう云われると、確かになんだか気分がいい。寝る前に特にいい事なんて無かったから、何かあったとすれば眠ってる間なのかな。
少し考えて、諦める。やっぱり何も思い出せない。
けど。
「いい夢見たらしいよ。よく覚えてないけど」
覚えてないのに?とくすくす笑う声を聞きながら、空を見上げる。
青い空にオオタカが舞って、溶けた。
ましてやそれが折悪しく蛍光灯が切れて突然真っ暗になったリビングで、灯りはテレビの心霊番組のみ、という最悪の状況の中なら尚更だ。いや、言い訳をさせてもらえば、何も好き好んでそんな番組にチャンネルを合わせた訳じゃない。兄貴とよく観たドラマの再放送、兄貴とよく見たローカルニュース、そんな無害な番組をいくつか経て、気がついたらそれは始まってた。
タチが悪い。いつの間にかそこにいるなんて、あいつら"せせらぎ"と一緒だよ。
「ちょ・・・っヤバイってそれ。てかなんでこいつらわざわざカメラ持って廃病院なんか行くんだよ。バカだろマジで」
「そりゃ、そういう企画なんだから」
テレビに向かって本気で悪態を吐く俺の後ろで、「仕方ないだろ」と兄貴が呆れたように云う。
でもさ、ただの病院だって夜は不気味なのに、よりによって廃病院で肝試しって、正気の沙汰じゃないでしょ。
「まあ、日本は資本主義だから」
「な、なんでいきなり資本主義?」
途端に蘇る赤点の記憶に動揺していると、兄貴はさらりと云った。
「金になるならなんでもやる」
「・・・なるほど」
お金になるのか。それなら仕方がないよな。
この国では人の不幸だって資本だよ、と、いつか兄貴がニュースを観ながら呟いた事を思い出す。
─それにしても。
「なんでかな」
「何が?」
「兄貴、ジェットコースターとかは怖がる癖に、なんで幽霊は怖くないのかなって」
「いや、そもそもジェットコースターと幽霊は同列じゃないだろ」
「あと、"せせらぎ"も」
せせらぎ?と一瞬考える気配の後、事も無げに
「ああ、ゴ」
「云ーうーなー!」
俺は耳を塞いで、その忌々しい4文字から身を守る。これだから、うちの兄貴は繊細なのか豪胆なのか判らない。だって、あんなおぞましい生き物のフルネームを口に出来るだけじゃなく、新聞紙製のジョーダンバットで一撃の元に倒したりも出来るんだぜ!
今まで何度となく見てきた兄の勇姿─だけならともかく、その容赦ない打撃で潰されたアレのなれの果てまで思い出してしまい、俺は大きく身震いした。
「そりゃ、男が2人して逃げ回ってたって事態は変わらないだろうが」
何気なく云われた言葉がグッサリ刺さる。
・・・虫一匹倒せない弟でゴメンよ兄貴・・・。
考えてみたら俺って、料理はできないし洗濯物畳むのも下手だし、家計簿なんて当然つけらんないし。できる事と云ったら庭の草むしったり電球取り換えたりする程度だけど、でもそれって兄貴にもできる事だし。
考えるな、考えるなマクガイバー。兄貴の口癖とは真逆の言葉を呪文みたいに唱えてみるけど、暗雲のように立ち込めた焦りは薄れない。うわ、もしかして俺ってとんだ役立たずですか!?
「ばか、何云ってんだ」
途端、呆れたような兄貴の声が響く。
「役に立つとか立たないとか。そういう事じゃないだろ」
「・・・俺、今口に出してた?」
「結構な大音量で」
がっくりと項垂れた俺を慰めるように、兄貴の手のひらがぽんぽんと肩を叩く。
「"あるはずがないから怖い"事って、あるよな」と、兄貴は静かに云った。
「・・・兄貴?」
「けど、どんな物事だって、理由も意味も無く起こったりはしない。一見、不可解なように見えても、それは単に理解ができないだけなんだ。"わからない"イコール"ありえない"じゃあないんだよ」
それが、さっきの「なぜ幽霊が怖くないのか」という問い掛けに対する答えだという事に、一瞬後で気付く。
「・・・じゃあ、幽霊も?」
「見る側の視力の問題かも知れないし、罪の意識や願望が生み出したものかも知れない。昔から云うだろ?『幽霊の正体見たり枯れ尾花』って」
兄貴の声は淀みがなくて、心地いい。たとえるならそうだな、せせらぎのような、と思いかけて、せせらぎというネーミングはあの黒い悪魔にくれてやったんだと思い出す。もったいない事をした。
「出る側の理由は?」
内容なんか何だっていい。ただ、もっと声が聞きたくて投げかけただけの質問に、そうだな、と兄貴は生真面目に答える。
「ポピュラーなのは、墓場の人魂とか。あれは遺体から出たリンが空気中で燃える現象だとか云われてるな。本当かどうかは知らないけど。・・・あとは、本人が死んだ事に気付いてないとか、恨みが強くて死に切れないとか」
「他には?」
「・・・心配でつい見に来た、とか」
「たとえば、どんな時?」
「大事な弟が、ウッカリ夜中に一人で心霊特集を観て泣いてる時」
くすりと漏れた笑いに、「泣いてないよ!」と反論しながら、俺もつられて笑う。
肩に載せられた手のひらは、いつの間にか退いていた。
「・・・だから?」
俺は、振り返らない。
「心配で、つい見に来た?」
ふっと、微笑む気配があった。
─『行ってらっしゃい。気をつけるんだぞ』─
思い出すのは、最後に交わした言葉。
どうしてあの時、掴まえておかなかったんだろう。
二度と触れられないって判ってたら、絶対に離したりしなかったのに。
一人きりになんて、しなかったのに。
あれはいつのお盆だったか。親父とお袋は帰ってきたのかなと、見よう見まねで迎え火を焚きながら無邪気に兄貴に尋ねた事があった。帰ってきたなら、もっとそれらしく教えてくれればいいのに。姿を現すのは無理でも、たとえば合図くらいくれてもいいのにな、と。
そうしたら兄貴は云ったんだ。それなら─
『それなら、俺はちゃんと判るように帰ってくるよ』
穏やかな、笑顔で。
『他の誰に理解できなくても、お前にだけは』
俺より先に兄貴が死ぬなんてそんな不吉なこと云うなよって叫んだあの時の方がよっぽど俺は泣きたい気持ちだったんだ。
いつの間にか、テレビが消えている。電球の切れたリビングは相変わらずの暗闇で、眼を開けていても閉じてるみたいだった。
振り向いても、きっと何も見えない。そこに兄貴がいるはずもない。
だってこれは俺の願望が見せた幻だから。(もしくは罪の意識?)
両方かもしれないな、と思う。
大切な人たちを守るためという大義名分の元で、ひどい事をたくさん、たくさんした自分を、俺は赦して欲しいのか、それとも叱って欲しいのか。
その時、ぽふん、と。
頭の上に温かいものが載せられた。
その、優しくて懐かしい感触と一緒に、
「お前はよく頑張ってるよ」
ほんとはそれだけ云いに来たんだ、と。
囁く声が聞こえた、気がした。
目が醒めると、ソファの上だった。
いつの間に寝たのかも思い出せないけど、ちゃんとテレビは消えていた。
夕べはあのクソ忌々しい心霊特集が始まったと思ったら急に電灯が落ちて、でもって・・・?
起き上がって、ふと首を傾げる。
俺、ここで寝るつもりだった訳でもないのに。
─なんでタオルケットなんか掛けてるんだ?
「おはよう、潤也くん」
「おはよ」
校門の少し前、いつもの曲がり角で姿を見せた詩織に挨拶をする。すると隣に並んだ詩織が、少しして俺の顔を覗き込んできた。
「なに?」
「なんか、ご機嫌?」
「んー」
そう云われると、確かになんだか気分がいい。寝る前に特にいい事なんて無かったから、何かあったとすれば眠ってる間なのかな。
少し考えて、諦める。やっぱり何も思い出せない。
けど。
「いい夢見たらしいよ。よく覚えてないけど」
覚えてないのに?とくすくす笑う声を聞きながら、空を見上げる。
青い空にオオタカが舞って、溶けた。
END
なんだかんだ云って心配性な兄ちゃんです。
それはまるでひかりのような
「潤也、話がある」
夕食の並んだテーブルを前にして、兄は弟にのたまった。
今日のメインは、芯まで千切りにしたキャベツと、大量のもやしで限界までかさ増しした焼きうどん。旬でなくとも特売コーナーに並ぶもやしと、夕方6時以降は2割引になる100グラム88円の豚コマが兄のお気に入りだった。ちなみにうどんは1玉しか使っていない。
潤也にとって誰よりも優しく頼れる兄は、家計にも地球にも等しく優しい。
「なに、兄貴」
そんな兄の神妙な顔を眺めながら、潤也は席についた。胡麻油のいい香りが鼻をつき、いただきますもそこそこに箸を取りそうになるが、お預けを食らった犬さながらにじっと我慢の子を貫く。
普段から温和な兄は、これで怒ると結構怖い。それも怒鳴りつけるような爆発的な怒りではなく、地中で煮えたぎる溶岩のような静かな怒りだから、表面温度が伺えない分、直面した時の恐怖はいや増すというもの。
とは云え正直、今の兄が本当に怒っているのかどうかの確証も無いのけれど、この前の小テストの結果は確かにひどいものだった。もしかしたら担任から兄にご注進でもあったのかもしれない。
「・・・今日、スーパーで詩織ちゃんのお母さんに会った」
「あ、そーなんだ?」
潤也は拍子抜けすると同時に箸を取り、良かったと心の中で胸を撫で下ろす。少なくとも詩織がらみの事で怒られる心当たりは無い。
元気に「いただきます」をしてうどんを小皿に盛ると、向かいから小さなため息が聞こえた。
「食べながらでいいから聞きなさい。お前、旅行のこと詩織ちゃんに口止めしなかったのか?」
「くひどめ?」
「喋る時は飲み込んでから!・・・その、お前と詩織ちゃんが旅行に行くって・・・」
「別に、してないけど」
云いつけ通りごくんと飲み込んだ後、なんで?とでも云いたげな表情で首を傾げる。いっそ無邪気な弟に、兄は『う』と詰まりながらも話を続けた。
「いいか、お前も詩織ちゃんもまだ高一だ。年頃の女の子が野郎と二人きりで旅行なんて云ったら、普通は親御さんが心配するだろう」
「でも事実じゃん」
「だからそこは!・・・嘘も方便って云うだろう。詩織ちゃんには誰か女の子と一緒に行くって云ってもらえば余計な心配は・・・」
「詩織のかーさん、何か云ってた?」
結論を急ぐのは、これ以上兄を悩ませたくないからだ。するとなぜだか兄は、心底疲れたように小さく息を吐いた。
「・・・娘をよろしくお願いします、って」
二度目の拍子抜け。ならば何も問題は無いではないか。
兄の懊悩の正体がわからず、潤也は箸を置いてその顔を覗き込んだ。
シャープな顔立ちの美人だった母親に似た面差しの兄は、伏し目がちにすると意志の強さより儚さの方が勝つ。豪胆でおおざっぱな父親似の自分とは、ほとんど外見的共通点はない。
だからだろうか。兄の心情を推し量ろうとするときは、いつもこうやってじっと覗き込むのが潤也の癖だった。自分と同じところ、違うところを、ひとつひとつ確認するように。
「兄貴?」
「・・・責任、とか」
蚊の鳴くような声に『え?』と聞き返すと、兄はきっと顔を上げた。
「責任とか、取れるのか?」
その真剣な表情に、潤也はふっと表情を和らげる。
「ホントに真面目だなぁ兄貴は」
「潤也!」
弟の素直な感慨が、揶揄のように聞こえたのか、兄は珍しく声を荒げた。が、
「大丈夫だよ。俺たち結婚するから」
「・・・へ?」
「そしたら何も問題ないだろ?」
眼を見開いて弟の顔を見つめる。その顔に、茶化しや誤魔化しは感じられない。
無意識の内に張り詰めていた肩の力を抜くと、椅子の背もたれが背中に当たった。
(そうか、二人は結婚するのか)
年齢を考えれば突拍子もない話には違いなかったが、天衣無縫という言葉が良く似合う弟の言葉は、時にどんな理論よりも兄を納得させる力を持っている。
『娘をよろしく』と云った時の、詩織の母を思い浮かべた。その表情、声からは、牽制でも勘繰りでも無く、ただ自分たち兄弟への信頼だけが伺えた。そんな風に彼女を納得させたのは、潤也の『一人の男』としての器と資質だ。
兄である自分だけが理解していると思っていたそれが他人にも認められた事に、大きな誇りとほんの小さな寂しさが混じったのは事実。だけど。
・・・そうか、結婚か。
いつしか兄の脳裏には、いつも自分の後をついて回っていた弟の姿が鮮やかに浮かんでいた。
あんなに小さかった潤也がなあ。(俺も小さかったけど)
潤也は楽天家で無鉄砲で考えなしだが、やるといえばやる男だ。きっと幸せな家庭を築くだろう。
改めて、この家が持ち家で良かったと、今は亡き両親に感謝する。そもそも兄弟二人でやってこられたのも住む場所があったからこそだ。
─そうだ、新婚さんに必要なのはまず家だ。
この家には小さいけれど庭もある。すぐに子供ができたって何も問題はない。
むしろ問題は自分だ。さすがに一緒に住む訳には行かないだろう。幸い、目標にしている進学先は学費の安い国立大だから(安いから目標にしていると云ってもいい)、卒業と同時にアパートを借りても、今まで切り詰めていた分で何とかやっていける。今こそ、長年の倹約生活が実を結ぶ時だ。ここで放出しなくていつ使うというんだ、俺!!
(大丈夫、潤也は必ず幸せになれるよ・・・父さん母さん・・・)
「ってちょっと兄貴!こんなトコで考察モード入らないでよ!」
ほとんど脊髄反射のように人生設計に思いを馳せていた兄は、弟に両肩を揺さぶられて我に返った。
「あ、ああ、大丈夫だ潤也、何も心配はいらない」
「って何が!」
「式はちゃんと挙げるんだぞ。兄ちゃん、そのくらいの蓄えは・・・」
「ああああもーーッ!今すぐなんて云ってないだろ!いつか!将来!もっっっっと先!」
髪をかきむしって吠える弟に、ようやく兄は夢から覚めたような顔つきになった。
「そ、そうか。それはそうだな。まだ高校生だもんな」
ホントにわかってんのかなぁ、と疑わしげな眼差しを向ける弟を尻目に、「俺が家出るのももう少し先で良いか・・・」などと、ぶつぶつ呟いた兄の言葉を、潤也は耳ざとく聞き咎めた。
「・・・何それ、兄貴。家出るって」
弟のまとう雰囲気がすっと一段階冷えたような気配には気づかず、兄は当然のように答える。
「何って、結婚するならお前達がここに住んだ方が都合がいいだろ?俺はどっかアパートか寮でも・・・」
「あーもうやっぱダメダメだな兄貴は!そんなんじゃ全然ダメ!」
「へ?」
弟からの予期せぬ駄目出しに軽く傷つく兄に、潤也は力強く云い放った。
「ここは俺達の家だろ!?なんで兄貴が出てくんだよ!」
「や、でも・・・だって」
「三人で住めば何も問題ないでしょーが!」
「・・・って・・・え?な、・・・はい?」
「兄貴と俺と詩織。今のまんまじゃん。何も変わらないよ」
「いやだってお前、普通は・・・」
お父さんがいてお母さんがいて兄弟がいる、普通の家族なら。
弟にお嫁さんが来るなら、兄が出て行くものじゃないのだろうか。・・・普通は。
「普通って何?それで俺たち幸せなの?」
畳み掛けるような言葉に、返す言葉も見つからず詰まる。
「兄貴は、俺がいなくても『普通』なら幸せ?」
真っ直ぐに見つめる瞳の、射すように強い眼差し。
それはどこまでもシンプルで、どこまでも迷い無く、どこまでもまっすぐで、まるで─
「俺、『普通』じゃなきゃ兄貴が幸せになれないってんならそれでもいいけど、でもそれ間違ってるから。絶対そんなんじゃ兄貴幸せじゃないから」
─まるで、光のような。
「だからどこにも行かせないよ。絶対」
滅茶苦茶だ、と思う。
そんな家族は聞いたことが無い。少なくとも、自分は知らない。
普通の家庭に憧れていた。父がいて母がいて、兄弟がいる『普通』の家庭に。
だから潤也もそうなのだとずっと思っていた。
けれど、真剣に自分の顔を覗き込んでくる潤也の顔を見ていたら、あんなにはっきりと憧れ、思い描いていた『普通』が、一体どんなものだったのかもよくわからなくなってきて。
「兄貴。・・・怒った?」
眉間に皺を寄せて考え込んだ兄の表情をなんと誤解したものか、恐る恐るといった風情の弟に、軽く吹き出しそうになるのをこらえる。さっきまでの勢いはどこへやら、もし耳と尻尾があったら、きっとぺしゃんこになっているに違いない。
「・・・そうだな。そんなのもあり、かもな」
苦笑して呟くと、潤也の表情が途端に明るくなった。
「兄貴ー!」
「わ、こら、あぶな・・・!」
制止も聞かずに飛びついてくる弟を、受け止めきれずに椅子ごとひっくり返る。したたか打った背中に顔をしかめつつも、満面の笑みで懐いてくる弟を前にすると何も云えなくなってしまう。
(・・・甘いよなあ、俺も)
一応、そんな自覚はある兄だった。
「こら!いい加減離れろって!」
何度か叱りつけられて、しぶしぶ離れていった潤也だったが、しばらくするとまた無邪気な笑顔を見せた。
「明日早速、詩織に報告しなきゃなー」
「・・・そんなに嬉しいのか?」
「当たり前だろ!?詩織だって楽しみにしてるんだからな、三人で一緒にここに住むの」
そんな風に自分の存在を手放しで喜ばれて、嬉しくないはずもなかった。緩む口許を隠しながら、照れ隠しにそっぽを向いた兄の耳に、その言葉が届くまでは。
「あー楽しみだな!『明るい家族計画』!」
ぴき、と兄のこめかみが痙攣した。
「・・・潤也」
「え、なに?」
「いや、今の・・・」
「『明るい家族計画』?やーやっぱ作戦名は必要かなーって。学校で詩織とこの事話す時はいっつも・・・」
いつも?
学校で?
詩織ちゃんと?
『明るい家族計画』云々・・・と?
「え、な、なに兄貴、顔が怖いよ?怒ってるの泣いてるの笑ってんのどうなの兄貴!?」
どうなのって。
そんなの俺が知りたいよ。
「・・・とりあえずそこ、座りなさい」
「は、ハイ・・・」
神妙に椅子を直す弟を見つめながら、さてどこから嗜めたものだろうか、と。
(・・・俺の育て方、間違ってないよな・・・?父さん、母さん・・・)
すっかり冷めた焼きうどんを前に、天を仰いで答えを探す兄だった。
END
原作では、至極ナチュラルに兄と弟とそのヨメが暮らしてる
安藤家ですが、漫画版の安藤だったら、そこに至るまでに
色々と葛藤とか懊悩とかがありそうだなーと思った訳で。
安藤家ですが、漫画版の安藤だったら、そこに至るまでに
色々と葛藤とか懊悩とかがありそうだなーと思った訳で。
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▼site master:サクラコ
文章と絵の人。黒猫属性。
お返事は速かったり遅かったりまちまちです。
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▼guest:クロシバ ケイタロウ
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