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「ただいまー」
右手に学生鞄、左手にスーパーの袋を持って、まっすぐキッチンへ向かう。家の中で火を使っている時特有のやわらかな湿気を心地よく感じながらドアを開けると、野菜を煮込む匂いと一緒に兄貴の声が流れた。
「おかえり。外寒かったか?」
「そーでもなかったよ。はい、これで良かった?」
スーパーの袋から、頼まれたカレー粉とシチュー粉を取り出すと、兄貴は「そうそう、これこれ」と云いながら受け取った。
「先週買おうと思って忘れてたんだよな。でも今日特売だったからちょうど良かった」


駅前で缶コーヒー片手に友達とダベってる最中、兄貴から電話がかかってきた。
メールじゃなくて電話だなんて、これは緊急事態に違いない!と勢い込んで通話ボタンを押すと、流れてきたのは『カレー粉が無い・・・』という悲痛な声。
『この前買ったと思ってて・・・でも今見たら無くって・・・』
普段からは考えられないしょんぼりとした声に、自然にくすりと笑みがこぼれた。
「じゃあ俺まだ駅前だからさ。買って帰るよ。どれでもいいの?」
『駄目。ええと、今日特売のやつがワゴンに並んでるはずだから、安いの2種類買ってきて。ついでにシチューも』
「おっけ。カレー粉とシチュー粉ね。他は?」
『あとは大丈夫。お願い』
「任せとけって」
最後の『お願い』に、喩え話じゃなく耳をくすぐられて、俺は上機嫌で通話を切った。兄貴との会話の後だと、普段使ってるケータイまでなんだか可愛く見えてくるから不思議だ。俺はほとんど無意識に、ケータイを撫でてからポケットに仕舞った。
普段キッチリしてる兄貴は、たまに失敗すると ─たまにだからか─ すごく慌てる。尋常じゃなく慌てる。逆に失敗なんて慣れてる詩織だったらにっこり笑ってスルーしてしまう程度の失敗にも、やっぱり慌てる。
けれど、そういう弱い所を見せるのは俺に対してだけだって事も判ってたから、だから俺は兄貴のしでかすちょっとした失敗は嫌いじゃなかった。ちょっとした失敗に、いつまで経っても慣れない兄貴が好きだった。
「んじゃ、俺そろそろ・・・」
帰るわ、と云いかけて立ち上がると、さっきまで話してた友達のポカンとした顔が目に飛び込んで、俺は首を傾げた。
「なに?」
「や・・・お前、家にヨメでも待ってんのかと思って」
「はぁ?」
なに云ってんだろねコイツは。ウチにお嫁さんなんている訳ないでしょー。
「今の、カノジョ?」
「うんにゃ、兄貴」
「・・・アニキ!?」
眼を点にしてるソイツに、んじゃまた明日ーとひらひら手を振って駅を後にする。
気がつくと、隣の喫煙スペースで煙草吸ってたサラリーマンとか、売店のおばちゃんまでこっちを見てた。一体なんだってんだろね?
俺はひらりと飛ぶような勢いで、近くのスーパーに向かう。兄貴のカレーは美味いんだ。肉はほんのちょっとだし高い野菜使ってる訳でもないけど、カレー粉2種類混ぜて使ってたりしてさ。ホント、頭良いんだよね。俺の兄貴は。


「ありがとな、助かった」
「どーいたしまして」
そして今目の前には、その頭が良くて優しくて可愛い兄貴がいる。
どうしよっかな、兄貴にごほうびとかねだっちゃおうかな。ああしまった、さっき寒くなかったかと訊かれた時に、寒かったって答えたら良かったんだ。そしたら、『あっためてー』とか云いながら自然に抱きつけたのに。
なんて、相当頭の沸いた事を考えていると、兄貴がちょっと眉根を寄せて不審げな表情を浮かべた。
(あれれ?)なんて思ってる内に、俺の制服の襟に手を掛けて。
「え・・・っ?」
そのまま、首筋に顔を寄せてきた。まるで、キスをねだるみたいに。
キス?
兄貴が?
兄貴が俺に?
どうしよう。そりゃ、俺達結構最近までおやすみのチューとかしてたけど、でもアレはただの挨拶だし、俺からするのがほとんどだったし、兄貴からこんなに積極的になるなんてちょっと有り得ない。
すぐ傍にある小さな頭に、さらさらした髪に、触ろうと思えばすぐの距離で静かにパニックに陥っていると、
「・・・やっぱり・・・」
という呟きが小さく聞こえた。
「な、何が?」
面白いくらいひっくり返った声で問うと、兄貴は俺の首根っこを掴んだまま、きっと顔を上げた。
「煙草の匂いがする」
「へ?」
たばこ?
慌てて袖に鼻を近づけると、ほんのわずかだけど確かにほのかに煙っぽい。
「まさか、吸ってないだろうな?」
「すすすす吸ってません!俺じゃないよ兄貴!」
もちろん俺の友達でもない。アイツだ。俺達のすぐ近くで、メール見ながらばかすか吸ってたサラリーマン。スペースこそ分かれてたけど、そう云えば風向きは確かにこっち方向だった気がする。
云い訳がましくならないように、でもかなり必死でそんな事を説明すると、兄貴はくすりと笑って「ばか」と云った。
「判ってるよ。ちょっとからかっただけ」
「え・・・ええええ~・・・」
ヒドイよ兄貴。兄貴に嫌われたら、俺多分生きていけないのに。あの忌々しいせせらぎと同じくらい、生きる意味無しのろくでなし生物になっちゃうのに。
「悪かったって。機嫌直せよ」
「だって・・・兄貴がいじめた」
いじいじいじ、とセルフ効果音付きでしゃがみ込んでいじけてると、兄貴はやれやれとか云いながら、俺の肩を叩いて立ち上がらせた。
「ごめんって。帰ってくるの遅かったしさ。最近暗くなるの早いから、ちょっと心配した」
云いながら、照れたように俯いてみせる。ああそっか。そういえば今日は特に寄り道するとも云ってなかったっけ。
メールじゃなくて電話だったのは、もちろんお遣いを頼む意図もあったんだろうけど、俺の事を心配してくれてたんだろうか。
そう思ったらなんだかやっぱり可愛くて仕方なくて、俺は兄貴に抱きついた。というかしがみついた。
「兄貴だいすきー」
「はいはい」
優しくて賢くて可愛い兄貴。なのに俺ってば役立たずな上に心配ばっか掛けて、ろくでもない弟でホントにゴメン。
しばらくそんな風にして懐いてると、唐突に兄貴が俺の襟首をがしっと掴んできて、俺は目を瞬いた。
「兄貴?」
まるで今から殴りかかろうとするみたいに首を解放してくれないまま、少し屈んで俺の胸元に顔を寄せると、低めた声で「いいか、よく聞け」と囁いた。

「日本の癌での死因第1位は肺癌だ」

云いながら、兄貴が俺の胸─というか肺の辺りを探る。
「あ、あの、兄貴?」
そして細く長い指でトントンとリズミカルに叩きながら、何も聞こえないみたいに俺を無視して続けた。
「もちろん、肺癌と喫煙の因果関係がはっきり認められた訳じゃないが、健康リスクに関わりがある事は事実だ。ニコチンは覚醒作用と同時に依存率も高い。血管収縮が習慣化すれば栄養障害が起こるし─」
云いながら、首筋に指を絡め、
「─心筋梗塞の危険性も高くなる」
つつ、と指を這わされて、ゾクリと背中が粟立った。
「・・・ッ!」
気がつくと、俺は兄貴の両手首を掴んでいた
ちょっと力を込めただけで、あっけなく折れてしまいそうな細い細い手首。頼りない程に柔らかく薄い皮膚に守られた青白い動脈。ここに咬みついたらどんな反応をするだろう。驚いて逃げるだろうか。いいや、でも、逃がさない。逃がすもんか。煽ったのは兄貴だ。俺は、俺は悪くな─
「─けど、一番の害悪は、」
兄貴は表情ひとつ変えずに、俺の腕ごと手首を持ち上げると、俺の鼻先でピタリと止めた。

「俺は煙草臭い奴にいつまでもくっつかれるのはゴメンだって事」

「んがっ」
思いっきり鼻をつままれて、俺は思わず兄貴の手を放してしまう。
・・・忘れてた。優しくて賢くて可愛い俺の兄貴は、これで意外に力持ちでもあったんだ。
「早く着替えて来いよ。あとついでに風呂入れてきて」
がっくり項垂れて情けない顔を晒してるだろう俺の顔を見ても、涼しい顔で何事も無かったように襟を整えてくれる兄貴に、俺は最後の悪あがきを試みる。
「ねえ兄貴、俺達なんの話してたんだっけ?」
「なんの、って」
兄貴は可愛らしく小首を傾げて俺を見返すと

「煙草の害について、だよ」

そう云うと、くすりと悪戯っぽく笑って俺の首を解放した。








E N D



原作での潤也と煙草のくだりを読んでから、いつか書きたいと思ってた話。
タイトルは、ロシアの某劇作家へのオマージュです。
くだんの短編は、『煙草の害について』という講演がいつのまにか・・・
という筋ですが、それとは逆の方向で攻めてみました。

あとは、一般人から見た兄貴萌えの奇異さについて(笑)。
潤也は自覚なく地雷を撒きまくってそうです。主に兄貴にとっての。

ホントはさらっとシンプルに書きたいのですが、
いつも無駄に長くなってしまうのが悪い癖ですね。精進。
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▼site master:サクラコ
文章と絵の人。黒猫属性。

お返事は速かったり遅かったりまちまちです。

▼guest:クロシバ ケイタロウ
漫画の人。柴犬属性。

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